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最新の研究でわかった「忠臣蔵」の新事実 古舘トーキングヒストリー

投稿日:2016年12月21日 更新日:

最新の研究でわかった「忠臣蔵」の新事実

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2016年12月10日(土)放送「古舘トーキングヒストリー ~忠臣蔵、吉良邸討ち入り完全実況~」より

「武士の家計簿」の著者・歴史学者の磯田道史先生は、実は大石内蔵助の遠い親戚。
その磯田先生の特別解説で、日本人が大好きな「忠臣蔵」の真実の姿がよくわかります。

ただの忠義心だけではなく、江戸時代の武家社会のルールなどが背後にあるといいます。
赤穂浪士47士が、150人もいる吉良邸に討ち入ったのに、47士は死者ゼロ、吉良側には45人もの被害者が出たのは何故か?
それが最新の研究でわかったというのです。
「赤城義臣伝」「寺坂信行筆記」「江赤見聞記」「原惣右衛門覚書」「丁未雑記」「赤穂分家済美録」によってわかった様々な新事実!

従来の忠臣蔵

元禄14年3月14日江戸城中「松の廊下」において刃傷沙汰がありました。
折しも京都からの勅使饗応の儀式の最中、接待担当の大名で播州赤穂(兵庫県)五万三千石の殿様、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、なんと儀式儀礼を教える先生役の吉良上野介(きらこうずけのすけ)に切りつけたのです。
「この間の遺恨覚えたるか」こう叫んだそうですが、何を意味するのでしょうか。
幸か不幸か、吉良上野介は死ぬほどの大事には至らなかったのですが、浅野内匠頭は即日切腹、吉良上野介はお咎めなし。
喧嘩両成敗の鉄則に反したばかりに、これから1年9ヶ月にかけて一大ドラマが展開することになるのです。
この年の勅使饗応の儀式は単なる年始の挨拶の返応だけではなく、特別の意味合いがあったそうです。
時の将軍綱吉の生母、桂昌院(けいしょういん)という方の官位従一位(皇族以外の女性としては初の)の贈位が朝廷からもたらされる手はずになっていたのです。
ですから親孝行の将軍綱吉はこの大事な日を血で穢されて許せなかったのでしょうか。

原因はハッキリされていないのですが、朝廷接待の儀礼を教えてもらうべき吉良さんに賄賂を贈らなくて意地悪されたからだとされていますが、他にも色々あるのです。
この二人、実は同業者なのです。
双方とも領地に塩田を持っていたのですが、瀬戸内の赤穂の塩の方が、三河の吉良の塩より品質が良く、たくさんとれた。
その辺の嫉妬や羨望もあり、意地悪を続けたという説もあるのです。
まだたくさん説はあるのですが、とにかく浅野の殿様は切腹、赤穂の城は没収、家臣は失職離散。
一方、吉良上野介はあくまでもお咎め無し。
これじゃあ片手落ちだと仇討ちとなるのですが、実に1年と9ヶ月を要することになります。

[出典:忠臣蔵のあらすじ(ガーちゃん・デンくんが行く-すみだあれこれ > http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA001/S001-2.html ]

赤穂浪士とバレないための工夫

舞台は、元禄15年(1702年江戸時代中期)、赤穂浪士が吉良邸に集結するところから始まります。
ここで、どうやって赤穂浪士とバレないための工夫したのでしょうか?

①赤穂浪士とバレないための工夫……浪士たちはいろんな職業に扮して潜入していた!
当時の武士は、自分が忍者になれるぐらい、情報収集に長けていました。
米屋になって、討ち入るための隠れ家を用意したり…。

②集合場所に工夫……集合場所は47士の一人、前原伊助の米屋。

討ち入り前の準備

その米屋は、吉良邸の目の前にありました。
目立たないように、一人一人と米屋に集まってきました。
前原は儲けを度外視して商売をし、吉良邸からも注文を受けていました。
米屋の中は武器庫になっていました。
討ち入りの際、赤穂浪士側の死者は0でした。
装備した武器にも工夫がされていました。
羽織は地味な黒を着用。
袖口には名前が小さく書かれた腕章を着用。
羽織の下には頑丈な鎖かたびら。
装備の総重量は10キロに。
大石内蔵助は討ち入りのルールブックを作成していました。
吉良を打ち取った合図は笛で知らせること。
部屋の中で切り合うため、槍は短いものを使いました。
弓も、室内で使用可能な小型のものを用意。
討ち入りの時間は「寅の一天」、今でいう午前3時過ぎ。
古来より夜襲はこの時間が最適とされていました。

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吉良邸

吉良邸の住所は、現在の墨田区両国。
土地は約3050坪。
部屋の数は推定30以上。
長屋では、いつ討ち入りが来ても良いように、100人以上の家臣たちが寝泊まりしていました。
この、雑魚寝をしている吉良の家臣たちの動きが、この事件を読み解くポイントだと磯田先生は言います。

広大な敷地の吉良邸では、茶会が行なわれていました。
吉良上野介は、普段は吉良邸にはいませんでした。
普段は息子のいる上杉家にいるのです。
この日は、大好きな茶会に参加して上機嫌。
「たまには泊まっていくか」と吉良邸に泊まったのです。

このときは、元禄15年(1702年)12月15日午前3時半過ぎ。
太陰暦なので、十五夜お月さんは必ず満月の日です。
磯田先生曰く、満月の夜、天然のライトで明るくなるこの日、しかも吉良が泊まるのはこの日しかないという、まさにこの日だったのです。

吉良の髪型は一般の人と違って剃っていません。
普通の武士は、兜をかぶるために剃るのですが、吉良は違っていました。
これは戦わない家柄の象徴で、吉良は公家のような高貴な家柄だったのです。

大石内蔵助と堀部安兵衛の人物像

浪士たちが用意していたのは小型の槍や弓でした。
室内で戦うことを想定していたのです。
大石内蔵助は「反実仮想力」が優れていました。
反実仮想力とは、事実と反対のことを想定する能力のこと。
「もし〇〇ならば、こうする」という風に、何通りにも武器や作戦を準備していました。
大石内蔵助の手紙を見ると、非常に几帳面だったことがわかります。

堀部安兵衛は、剣術の腕で召し抱えられていました。
「やられたらやり返す」戦わずにはいられない性格でした。
堀部安兵衛と大石内蔵助の2人が、討ち入りの方向へ引きずっていったと磯田先生は見ています。

赤穂浪士は約300人⇒47人になった

討ち入りの際には47人でしたが、赤穂浪士は約300人いました。
ほとんどの赤穂藩の武士は「討ち入りに賛成できない」「死ぬのはまずい」など、様々な事情で討ち入りに参加していません。
大石は、戦意の低い人間をそぎ落としていき、最後に残った人間たちと共に討ち入りに臨みました。

吉良は油断していた!?

討ち入りが行なわれたのは、松之廊下事件から約2年後のこと。
当時の江戸では、「赤穂浪士は討ち入りをしないのか?」と噂になっており、吉良邸でもそれに備えて多くの家来たちが長屋で寝ていました。
討ち入りを想定していたのに、吉良が油断していたのは何故でしょうか?

磯田先生曰く、当時の仇討ちは路上で起こることが普通でした。
なので、邸内まで攻めて来るとは思っていなかったのだろうと。

吉良邸は、体育会系の家ではなく、茶会や儀礼をするような文化系の家でした。
それに対し赤穂藩は、最後まで築城をやっていたような体育会系の藩でした。
究極の文化系の吉良と、究極の体育会系の赤穂との戦いだったのです。

赤穂浪士は吉良邸の詳細な図面を入手していました。
吉良側は、普段暮らしている上杉家から吉良邸に移動する道中で襲撃されることは想定していましたが、邸内に押し入ってくることは想定外だったのです。

当時の江戸の人々も、討ち入りを予想していたといいます。
気持ち的には赤穂側を応援していただろうと思われます。

大勢の屋敷に押し入ったのに47人誰も死ななかったのは、頑丈な装備だったから。
特に下半身を鎖かたびらで守っていました。
足を切られると大量に出血し、動けなくなったり気を失ってしまうからです。

従来の定番ドラマで描かれた討ち入りの瞬間

赤穂浪士47人対、吉良家臣約150人。
なぜ47士は、死者を出す事なく吉良を討ち取る事が出来たのでしょうか?
その答えは、緻密なリーダー・大石内蔵助が用意した大胆な作戦にありました。
その前に、従来の定番ドラマで描かれてきた討ち入りを検証します。

【従来の定番ドラマで描かれた討ち入りの瞬間】
47士がそろって吉良邸へ行軍し、吉良邸表門に到着。
大石の合図とともに、まずははしごで間十次郎と大高源五の2名が侵入。
その2人が中から門を開け、堂々と侵入。
そして、高らかに陣太鼓を打ち鳴らす大石内蔵助。
陣太鼓の音に気付いた吉良家臣と即座に乱戦。
ここから吉良の寝床を目指し、奮闘する赤穂浪士たち。

新事実で明らかになった討ち入りの瞬間

実際は、「太鼓なし」「表門を開いて突入する浪士たちなし」
本当にリアルには、「目立たぬように、目立たぬように…」

注目は、吉良邸への侵入方法。
従来のドラマでは、表門から侵入した47士は、すぐに吉良家家臣と乱戦を繰り広げていました。
実際には、大石内蔵助が最初に行った《ある作戦》によって、吉良家家臣たちは一時戦闘不能へと追い込まれる事になります。

陣太鼓を鳴らすなんて、来たことを知らせるようなものなので、実際にはあり得ないことなのです。
恐いのは、上杉家からの援軍が到着することでした。
それゆえ、討ち入りの初期には目立ってはいけないのです。

【新事実で明らかになった討ち入りの瞬間】
米屋から静々と出てきた浪士たちは、すぐに「裏門部隊」と「表門部隊」の二手に分かれました。
裏門部隊を率いるのは大石主税。
表門部隊を率いるのは大石内蔵助。
表門部隊の大高源五は、吉良と同じ茶道の師に弟子入りし、この日吉良邸で茶会があるという情報を入手していました。

大石が静かに合図し、間十次郎が梯子で侵入。
しかし、ここで門を開けることはなく、表門23名は全員、静かに屋根から侵入しました。
原惣右衛門(55)と神崎与五郎(37)は、屋根から落下し負傷。

まず、浪士たちは吉良がいるであろう母屋ではなく、家臣たちが100人以上いる長屋の前に並びました。
浪士たちが取り出したのは、金づちとかすがい。
長屋の扉にかすがいを打ち込んで、家臣たちを閉じ込めたのです。
この金づちの音で、家臣たちは目を覚まします。
響き渡ったのは陣太鼓の音ではなく、金づちの音だったのです。
家臣たちが扉を開けようとしますが開きません。
外から浪士たちが矢を放ち、完全に封鎖しました。
実際は23人しかいないのに、外から大声で大人数いるかのように思わせ、家臣たちの戦意を削いだのです。
今まで知られていなかったのですが、「長屋制圧」こそ、討ち入りの真実でした。

表門から吉良の寝室までは直線にして約100m。
この騒ぎは、吉良には全く届いていませんでした。
ぐっすり眠っている吉良。

討ち入りの資金はどこから出ていたのか?

磯田先生曰く「もう、資金は底をついていました」
堀部安兵衛が「もうお金がない」と書いている書状が残っています。
資金の一部は、浅野内匠頭の正室から与えられていました。
資金はもう底をつきかけていたので、この瞬間しかできなかったのです。

裏門における、火事を装った揺動作戦

表門からの使者が、裏門で待機する大石主税率いる裏門隊に「長屋制圧」を知らせに来ました。
その知らせを受け、裏門隊は火事を装って木づちで門を破壊。
慌てて出てきた家臣たちを弓矢で討ちます。
寝起き状態の家臣たちを次々と斬っていきます。

表門から突入

片岡源五右衛門(36)が「我ら、浅野内匠頭家来でござる!今宵、亡き主君のご無念を晴らさんがため、推参いたした!」と叫びました。
姑息な手段はとらないという宣言でした。
大石内蔵助の「かかれー!」の合図で突入する浪士たち。
家臣たちを斬りながら奥へ進みます。
真っ先に向かったのは武器庫。
弓の弦を切断、槍も破壊して使えないようにしました。

武器庫を破壊したことが勝利の決め手に

大名の屋敷は、戦場における陣小屋になぞらえてあります。
主君が中央、周りにコの字形もしくはロの字形に長屋を造り、周りを家臣が固めている形にします。
家臣のほとんどは、中間(ちゅうげん)と呼ばれる荷物運びや足軽と言われるアルバイト。
彼らは、死ぬところまでやらなくてもいいのです。
中間と言われる荷物運びは、人数は多いが戦闘参加義務はありません。
一方足軽は、戦闘参加義務がありますが、身分が軽いので討ち死にするところまで期待されていません。
また、足軽は武器をもらえないと戦闘できません。
なので、武器庫を破壊すれば足軽は戦闘に参加しないことを、当時の武士は皆知っていました。
真っ先に武器を破壊した作戦が、勝利の決め手となりました。

さらには、そういう命がけで戦う必要のない人たちに、「閉じ込めたぞ」と浪士側は言います。
わざと言ってあげているのです。
浪士側は「閉じ込めた」と言って、足軽たちは「閉じ込められた」と。
本当は破って出てこられるのですが…。
破って出てきたのは、ほとんど中小姓という人たち以上で、士分と言われる人たちです。
袴を穿いて刀を2本差している人たちは、普通の侍の身分の人たちです。
彼らは戦闘参加義務があるので、死に物狂いで蹴破って、矢を撃たれても出ていっています。
この人たちの死傷率は非常に高く、ほとんどの人が死ぬかけがをしています。

一方、足軽や荷物運びの人たちは、死者はわずか1名でした。
80人を超えるほどいたのに、死者は1名だったのです。
これは、身分制度の軍隊の盲点を突いた戦いなのです。
さらに「閉じ込めたぞ」と言って、出てこなくても良い理由を作ってあげたのです。

兵法を良く知っていた大石内蔵助

大石は、本当によく兵法がわかっていました。
「心理戦の王者」と言ってもいいぐらいです。
人間は、一番緊張感があって、それが終わった時が一番油断するのです。
普段、吉良は上杉邸にいて、襲ってくるなら路上だと思っていました。
だから吉良の足軽たちも、みんなものすごい緊張感で吉良を護衛してきて、吉良邸までやっと帰ってきました。
そして「もう今日は安心だ」と思って寝たところで襲ってきたのです。

松之廊下事件、浅野は我慢出来なかったのか?

松之廊下事件ですが、そもそも浅野は我慢出来なかったのでしょうか?
江戸城で、京都から天皇の使節団がやってきて、幕府側と大パーティーをやります。
そのパーティーの全ての統括プロデューサーが吉良でした。
その吉良に向かって、総合演出の後輩の幹事役(総合演出チーフディレクター役)の浅野内匠頭が、松之廊下で斬り付けるっていう事が尋常ではないのです。

大石内蔵助の遠い親戚である磯田先生は、浅野に吉良のとどめを刺してほしかったといいます。
吉良が死ななかったおかげで、のちのち大勢いの人が死ななければならなくなったからです。

武士は、刀を抜いたら相手を仕留めるか、自分が腹を切るかしかありません。
仕留められずに逃げられているというのは、大変な恥辱なわけです。
だからこそ、恥辱のままにしておけないというのが、大石たちにもあったのです。

火事だと言って騒いだ裏門隊

裏門隊は、火事を装って木づちで門を破壊し、慌てて出てきた家臣を討ちます。
磯田先生によると、この作戦は、当時の火事というものを考えた巧妙な罠でした。

江戸の大火災と言えば、木造建築なので一気に火の手が広がります。
そうなったとき、鎮火の方法は2種類だけでした。
ポンプ車や消防車があるわけではないので、水をどんどんかける事は100パーセント出来ません。

1つは、とび職の登場。
木遣りの人たちが屋根に上がって解体するわけです。
風向きによって、先に燃える資材を壊してしまう「破壊消防」です。

破壊するから、ドンドンドンドンと叩いて壊してるので、火事だなって思わせています。
あとは「火消大名」がにぎにぎしい格好して火災現場にいます。
だから、大石主税がそれらしい恰好をしてそこにいる事で、本当に火事なんだと思い、大慌てで吉良の家来が焦って出てきたのです。
裏門で「陽動作戦」で引きつけていたので、表門では「長屋の封鎖作戦」をし、中を自由に捜索することが出来ました。

大石の作戦は、どれも用意周到で巧妙に考え抜かれたもの

最新の戦争のゲームでは、ステルスアクションといって、とにかく「撃たない」のです。
リアルなゲームほど、「敵を起こさないまま侵入する」という図式が取られています。
戦争は全てそうです。

ここまでの大石内蔵助の作戦は、どれも用意周到で巧妙に考え抜かれたものですね。
良い悪いは別にして、あの「口上」がしたたかです。

「我ら、浅野内匠頭家来でござる!今宵、亡き主君のご無念を晴らさんがため、推参いたした!」

とっくに侵入して、どんどん討ち入りしてるのに、急に討ち入りするみたいな宣言をしています。
あれを一応やっておかないと、幕府に対して歯向かってるっていう事になるので、あとあと良くないのです。
それと、大声で門を封鎖しておいてから、赤穂浪士の討ち入りだという風に言えば、長屋の中にいる人間「やっぱり出ていくのをやめよう」と。
自分たちより数が多いと錯覚してるので。
吉良側は、夜が明けても100以上いると思っていました。

一方、赤穂浪士側は、夜が明けてはいけないのです。
夜が明けて、いろんなものが見えてきたら、自分たちの勝ち目ないので。
いろんな作戦を遂行するためには、薄暗がりでなければいけないのです。

「一向二裏」という戦法

吉良邸へと侵入した赤穂浪士たちは、日の出までの時間が迫る中、吉良を探します。

外では家臣たちと乱戦です。
赤穂浪士は、家臣1人を3人で取り囲みました。
これはまさに「一向二裏」という戦法です。
1人が向き合っている隙に、後ろが斬り付けていくという、後の新撰組もマネしたと言われる戦術です。

裏門隊、表門隊が共に突入。
屋敷の中は暗く、仕かけがあるかも知れないので、明かりを灯します。
広大な廊下に複雑な仕組みの邸内、やみくもに突き進んでも迷うだけです。
それを大石は完全に把握していました。

明かりを灯す事で、吉良を捜しやすくするのと、万が一の逃走経路を確保しました。
暗い屋敷内、ろうそくを持った照明係を携え、戦います。

吉良が寝室を出て、どこかに身を隠しました。
この場所こそ、従来の定番ドラマでは描かれなかった意外な場所でした。
いよいよ物語はクライマックスへ!

残り30分

吉良上野介はある場所に身を隠しました。
この事が、47士の運命を大きく変える事になります。

吉良はいまだ見つからず、赤穂浪士たちはかなり焦っています。
それはそうです。

裏門隊、表門隊が、屋敷内中央付近で合流しました。
赤穂浪士たちにも焦りが見えてきました。
各部屋隅々までチェックしていきますが、なかなか見つかりません。

柱に、吉良の寝室まで我々がやってきたぞという証拠を貼りつけています。
吉良が逃げてずるいというのを世間にアピールしつつ、もし吉良を討ち取れなかった時のための保険です。

間もなく日が昇ります。
完全な夜明けまで残りあと30分を切りましたが、一向に吉良が見つかりません。

時代によって変わる「忠臣蔵」の捉え方

大石内蔵助は戦わないように見えますが、本陣に陣取ってないとダメなのです。
指揮を執らないといけないのと、幕府の使いが、目付がやってきて戸の向こう側で「お前ら何やってるんだ」っていった場合に、内側でしゃべって外交をして時間を稼がないといけないからです。
だから門の側には必ずいないといけないのです。

一向二裏作戦、1人に対して3人で襲いかかるのは、今でも世界各国の空軍が使ってる作戦です。
複数の飛行機で1機を倒すと。
武士たちが合戦場で協力し合って敵を倒すという、非常に実戦的な時代の武士です。
赤穂義士が、吉良側の家臣を槍で刺して、後ろを振り返って去ろうとしたら、「後ろの背中から『南無阿弥陀仏』と突いた相手の言葉が聞こえたのが最後まで耳元に残ってる」書き残しています。

「吉良の寝室まで我々がやってきたぞという証拠を柱に貼り付けている」というのはよくあります。
忍者の教科書にも書いてあります。
吉良が見つからなくて全員で切腹した場合にも、ここまでの事はやったという風に世間に言いたかったのでしょう。
あそこまで踏み入ったって事になると、大石がたとえ討ち取れなくても、吉良へ処罰される事を期待しているわけです。
大勢に部屋に入られたうえに、これだけの荒らし回りをやったら「武道不覚悟」という烙印を吉良は押される事になります。
だからたとえ吉良を討ち取れなくても、幕府や世間から「もう吉良は武士の風上に置けんほど弱いやつだ」という風に思わせるためにやったと思うのです。

この「忠臣蔵」は、時代の移り変わりとともに捉えられ方は大きく違います。
江戸時代は「仇討ち」という事でご法度の側面、しかし明治天皇は、浪士たちの忠義を愛したとも…。
そして戦後GHQは、忠義を称えたこの話を禁制にしたとも言われています。

とんでもない事しでかした、偉い自分たちのお殿様が、あんな風に自害させられたとなると、当時の「御霊信仰」で、怨霊となって自分たちが祟られる、世界が変な事になってしまって、飢饉が起きたりする。
だから自分たちが仇討ちでもして、きちっとその殿様の魂に、静かな御霊になってもらって、子々孫々を守ってもらうように、嫌々でもやらなきゃいけない事情があったのかも知れません。

この事件は多角的に見る必要がある

討ち入りした義士たちは、吉良を討ち取る以外にはそんなに主要目的はなかったので、倒れて戦闘不能になった人間の首を刺したり、とどめを刺した形跡はありません。
「善」と言われてた方にも善じゃないところが存在し、「悪」と言われてた吉良側にも悪ではないところもあります。
やはり人間模様だと。
この事件は、そういう風に多角的に見ないとダメですね。

また、その日以来行方不明になった吉良家の士分の者たちも結構います。
要するに逃亡してるのです。
誰に感情移入するか。
昔なら単純に、47士の誰かに感情移入していました。
みすみす「負け戦」の中、吉良を守ってた人の中に感情移入が強い人もいますよね。
そう考えると、かなり深いです。

遂に吉良の討ち取り

ここで気になる「吉良を討ち取る最後のシーン」。
ここにも、定番のドラマとは違う新事実がありました。

従来のドラマでは、炭小屋に隠れていた吉良を見つけ、庭へ引きずり出します。
大石内蔵助)「このうえはこのお刀をもって、尋常のご生涯のほど、願わしゅう存じまする」
吉良)「いやじゃ。わしはいやじゃ。なぜこのわしが…」
従来のドラマでは、自決を求めらた吉良は拒絶し、最後は大石内蔵助によって討ち取られます。

実際は炭小屋ではなく、厨房、台所の倉庫に隠れていました。
見つかった吉良は食器を投げて応戦します。
吉良を守っていた2人が1人ずつ外に飛び出し戦いますが、一向二裏戦法で2人とも赤穂浪士にやられてしまいました。

他を当たろうとしましたが、何かを感じた浪士の間十次郎が、台所の倉庫に引き返しました。
そして間は、扉の向こうめがけて槍を刺しました。
やみくもに槍を刺し、何度目かに吉良を捉えました。
吉良)「これだから、武士は大っ嫌いじゃ…」

吉良上野介は、台所で間十次郎の槍に刺され、最期は実にあっけない幕切れでした。
吉良邸突入から1時間半。
浪士側で大けがを負ったのは2名のみでした。
1人の死者も出す事はありませんでした。

そして、亡き殿の墓に向かって

これまでの定番ドラマでは、このあと浪士たちは泉岳寺に向かい、主君浅野の墓に吉良の首を捧げるのが定番でした。
しかし、実はその道中にも、意外な新事実があったのです。

大石たちは現実主義者たちですから、後ろから上杉なんかの追撃があるのではないかと、後ろを十分警戒しながら進んでいきました。
その頃には、見物人が集まってきて、拍手叩いたり「よくやった」とかいう声が飛んでいますが、まだ臨戦態勢で泉岳寺へ向かいます。
泉岳寺のお寺さんたちがワーッて取り囲んで、今で言う「サイン攻め」だったそうです。

実は当初は、泉岳寺への行軍は予定していませんでした。
吉良邸前の寺・回向院で、沙汰を待とうとしていましたが、しかし血まみれの浪士を寺は拒みました。
その結果、10キロ先の浅野内匠頭の墓前へと、急きょ向かう事にしたのです。

吉良が刺され時に、後に幕府が検視結果を見ると、両手に刃物の痕があるので、恐らく刺されたやつを必死で素手で押さえて引き抜こうとした防御創があるので、刺されても生き延びようとした形跡はあると思われます。
疲れ切った47士たちは、本当にもう足が出ないと。
けがも含めて、あるいはお年寄りの人は、かごに乗りました。
今で言えばタクシーに一部乗っていくようなものです。
10キロ先の泉岳寺に向かって。

まとめ

ついに本懐を遂げた赤穂浪士たちですが、こうして事実関係を見てくると新たな疑問も出てきます。
「忠臣蔵」と言いますが、果たして浪士たちは、殿への忠誠心のみでこんな討ち入りを果たしたのでしょうか?
更にもう1つの疑問…。

この屋敷内に残ったのは死体の山です。
長年言われてきた「赤穂浪士は善」「吉良は悪」。
果たして勧善懲悪だったのでしょうか!?

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