是枝監督が「入浴シーン」を撮り続ける理由が深いので紹介します。
『万引き家族』の是枝監督が「入浴シーン」を撮り続ける深い理由
「風呂の」血よりも濃い 2018.06.16
伊藤 弘了
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p>是枝裕和監督の作品を見ていると気づくことがある。
『誰も知らない』『海街diary』『そして父になる』、そして最新作『万引き家族』……必ずと言っていいほど「入浴シーン」が現れるのだ。
なぜ彼は入浴にこだわるのか。実は、それぞれの作品を詳しく見ると、「人はどのようにして『家族』になりうるのか」を描いてきた是枝監督の思想が、そこに凝縮していることがわかるのだ。
入浴シーンに注目すれば、是枝作品をより深く味わうことができる。『そして父になる』の入浴シーン
是枝裕和は、これまでに監督したほぼすべての映画作品で入浴に関わるシーンを描いている。
たとえば、先週(2018年6月9日)地上波で放送された『海街diary』(2015年)には、次女(長澤まさみ)が浴室内でカマドウマを見つけて大騒ぎするシーンと、四女(広瀬すず)が湯船に浸かって物思いにふける姿を捉えたシーンが見られる。彼女たちはなぜ映画のなかで風呂に入るのか。
女優の裸体がスクリーンに彩りを添える一大要素であることに異論はないだろう。
しかし、是枝作品に見られる入浴シーンは、当然ながら単に観客のエロティシズムを満足させるためだけに用意されているわけではない。それでは、一体どのような意味があるというのか。
それを知るための手がかりを与えてくれる作品が『そして父になる』(2013年)である。
まずはその内容を見ていこう。『そして父になる』は、実在の新生児取り違え事件に着想を得た作品である。
本作は、子どもを取り違えられた二組の家庭を中心に描いているが、この二組の家庭、とりわけ父親の人物像は、きわめて対照的に設定されている。東京の大手建設会社に勤務し、出世街道をひた走る野々宮良多(福山雅治)は、まさに絵に描いたような成功したエリートであり、専業主婦のみどり(尾野真千子)と高級ホテルの一室を思わせるようなタワーマンションで裕福な暮らしを送っている。
一人息子である慶多(二宮慶多)の教育にも力を入れており、映画は慶多の私立小学校受験の場面から始まっている。それに対して、群馬で小さな電器店を営む斎木雄大(リリー・フランキー)はお世辞にも裕福な暮らしをしているとは言いがたい(優雅にレクサスを乗り回す良多に対して、雄大は日常的に店の名前が入った軽ワゴンに乗っている)。
妻のゆかり(真木よう子)も弁当屋のパートに出て家計を支えている。取り違えられた長男の琉晴(黄升炫)を含めて子どもは三人いる。
子どもを教育するというよりは、一緒になって楽しむタイプの両親である。『そして父になる』の入浴シーンは、まずはこの二つの家庭の違いを印象づけるような働きをしている。
慶多(野々宮家で育てられたが、血がつながっているのは斎木家)と琉晴(斎木家で育てられたが、血がつながっているのは野々宮家)の取り違えが発覚して以降、二つの家族は子どもを交えて頻繁に会うようになり、やがて子どもをそれぞれの家に泊まらせる段階へと進んでいく。良多(福山雅治)の家では子どもは一人で風呂に入るように躾けられており、琉晴が泊まりにきた際にもそれが踏襲される。
息子に対して、強く威厳のある父親像を保とうとする良多は、その実、子どもとの関係をうまく築くことができない、不器用な父親なのである。一方、もう一人の父親である雄大は普段から子どもたちと入浴をともにしており、慶多が泊まりにきたときにも一緒に風呂に入っている。
このシーンで子どもたちと戯れる雄大(リリー・フランキー)は、撮影を忘れて本気で楽しんでいるようにさえ見える。雄大は慶多とすぐに打ち解け、親子然とした振る舞いができるようになるが、子どもとの接し方がわからない良多は琉晴との距離をうまく縮めることができない。
最終的に子どもを交換するという段階になっても、琉晴は育ての両親を恋しがり、ついには良多とみどりのタワーマンションをこっそり抜け出して電車で斎木家へと帰ってしまう。こうした両家の親と子の親密度の違いが、子どもと一緒に風呂に入ることができるかどうかという点に端的にあらわれているのである。
浴室が家族間の親密さをあらわす例は、『誰も知らない』(2004年)や『歩いても 歩いても』(2008年)、最新作の『万引き家族』(2018年)といった他の是枝作品にも見られる。『誰も知らない』は、母親に見捨てられた腹違いの四人の兄弟姉妹のサバイバル生活を描いた作品である。
この映画には長男(柳楽優弥)と次男(木村飛影)がともに湯船に浸かってくつろいでいるシーンがある。やがて母親が残していった生活費は底を尽き、水道が止められ、公園での生活を余儀なくされる彼らには、もはや温かい風呂に入るという贅沢は許されなくなる。
生活が苦しくなると、長男と次男のあいだで衝突が起こるようになるのだが、それは、二人が一緒に風呂に入って親密な時間を過ごせなくなった結果であると言っては穿ちすぎだろうか。『万引き家族』ではどう描かれているか
『歩いても 歩いても』では、のちに『テルマエ・ロマエ』(2012年)で“国民的お風呂俳優”の座に就くことになる阿部寛演じる父親と、再婚相手の妻(夏川結衣)の連れ子(田中祥平)との入浴が描かれる。
普段は別々に風呂に入っているというこの血のつながらない父子は、祖母(樹木希林)のすすめで一緒に入浴することになる。浴槽内で二人が話題にするのは、祖母から聞いた迷信である。
祖母-父-息子の三代に渡って、血のつながりを超えた思い出が共有される。この流れで『万引き家族』の入浴シーンにも触れておくべきだろう。
近所で「保護」してきた幼い少女(佐々木みゆ)とともに柴田信代(安藤サクラ)が湯船に浸かるシーンで、信代は少女の腕に虐待の痕跡と見られるアイロンの火傷跡をみとめ、自身の腕にも同様にアイロンの火傷跡があることを示す。
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p>信代はクリーニング店で働いており、作中にはアイロン掛けの作業をする彼女の姿も見られるので、これは仕事の上でついた傷と考えるのが普通だろう。
だが、劇中で示唆される彼女自身の不遇な幼年時代に照らしてみると、実は彼女の火傷跡もまた虐待の名残であるのかもしれない。
いずれにせよ、彼女たちは浴室という場でお互いの傷跡を介して疑似母娘の契りを交わしているのである。是枝作品に見られる入浴シーンが家族間の親密さをあらわしていることはもはや明らかだろう。
しかし、ここでさらにもう一歩踏み込んでみたい。是枝作品で描かれる浴室は、単に親密さを表現するためだけの場所ではなく、家族が家族になるための場所である。
そう言ってしまいたい。これまでの文章のなかでも仄めかしてきたように、是枝作品には血のつながりのない家族が数多く登場する。
『誰も知らない』の異父兄弟、『歩いても 歩いても』の父親と妻の連れ子、『万引き家族』の信代と少女。
彼らは入浴という体験を共有し、まさにそこで親密さを深めることによって、血のつながりを超えて家族になっていく。『そして父になる』で描かれているように、血縁だけでは家族は成立しない。
一般には「血は水よりも濃い」と言われるが、是枝作品にあっては「風呂の水は血よりも濃い」のである。さらに言えば、人々が裸の付き合いを通して絆を深める場は風呂に限られるわけではない。
『DISTANCE』(2002年)や『奇跡』(2011年)のプールや、『万引き家族』の海水浴もまた、家族間の親密さをあらわすとともに、血のつながらない人々を家族にする役割を果たしている。このとき、水に隣接して展開される諸々のアクティヴィティもまた同様の役割を担うことになるが、なかでも「釣り」はその最たるものである。
最後にこの点について見ておこう。作品間に張り巡らされた「つながり」
『海街diary』の三女(夏帆)は作中で何度か釣り竿を振るう仕草を見せる(そもそも物語の舞台が海のそばに設定されている点に、すでに是枝的主題が見出せる)。
彼女が釣り好きの人物に設定されているのは単なる偶然ではなく、この要素には三女と亡くなった父親を結びつける重要な機能が託されている。三女は父親が釣りを好んでいたことを、異母妹の四女(広瀬すず)から聞かされる。
父親は、三女が幼い頃に愛人と家を出ているため、彼女自身には父親が釣りをしていた記憶はない。
だが、四女の話を聞いて、そこに間違いなく親子の繋がりが存在していたことを悟るのである。また、その話を伝えるのが腹違いの妹である点も重要だろう。
彼女たちは、釣りをめぐる死者の思い出を共有することで姉妹としての精神的な結びつきを強める。釣りは、『そして父になる』にもあらわれる。
タワーマンションのベランダで魚釣りの真似事に興じる親子三人(良多、みどり、琉晴)の様子が捉えられているのである。
仕事人間の良多は、家族をアウトドア活動に連れ出すことができないため、部屋の中でテントを張り、擬似的にキャンプ気分を作り出そうとする。ここでポイントとなるのは、屋内で繰り広げられるこの疑似アウトドア活動が、それを楽しんでいる彼ら家族の関係もまた擬似的なものにすぎないのではないかという不穏な問いを喚起する点だろう。
この場面で画面上にあらわれる三人は、是枝作品には例外的な、血のつながった家族である。是枝にとって、やはり血のつながりは家族の成立を保証するものではないのだ。
いつか一緒に風呂に入れるようになったとき、彼らは本当の家族になれるのかもしれない。『万引き家族』では、釣り竿は単に万引きの対象の一つに選ばれているだけでなく、父親と息子が並んで釣り糸を垂れる終盤のシーンを準備している。
その意味については、映画を鑑賞して、ぜひとも各人で考えてみて欲しい。
ここまでの議論がその助けになるはずである。この記事では、入浴シーンに特化して是枝作品の読み解きを行った。
記事の最後には、入浴に類するものとしてプールや海水浴、釣りにも触れたが、是枝の作品には、こうした細部のつながりが他にも数多く存在する。是枝自身は、しばしば好んで「大河の一滴」という比喩を用いる。
これは自分が映画の歴史のなかに生きている実感を言いあらわすための言葉だが、是枝の作品に散りばめられた種々の細部もまた、相互に連絡を取って結びつきあいながら、大きな流れを形成しているのである。
(文中敬称略)
[出典:『万引き家族』の是枝監督が「入浴シーン」を撮り続ける深い理由(伊藤 弘了)現代ビジネス(講談社 > http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56133 ]
そんなに深い意味が込められていたとは、是枝監督もすごいですが、それを見抜く伊藤さんにも驚きました。
映画は結構観てきたつもりですが、まだまだ勉強が足りないなあと、この記事を読んで思いました。
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