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「親父にもぶたれたことないのに!」ガンダム芸人・若井おさむさんは家族に虐待されていた

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機動戦士ガンダムの名台詞「親父にもぶたれたことないのに!」で有名なモノマネ芸人の若井おさむさんは、実生活では家族に虐待されて育ったそうです。
その壮絶な体験を紹介します。

ガンダム芸人・若井おさむが語る親との確執「母を手にかけずにすんだのは、人生を失いたくなかったから」

4/21(火) 12:06配信

「親父にもぶたれたことないのに!」。アニメ『機動戦士ガンダム』の主人公アムロ・レイのこの名ゼリフの物まねでブレイクした芸人・若井おさむさん。しかし、自身は家族から壮絶な虐待を受けて育ち、一度もこのセリフに共感したことがないといいます。(構成=平林理恵 撮影=帆刈一哉)

* * * * * * *

◆優秀な兄と比較され、怒鳴られしばかれて

小学生のころから「死にたい」「僕なんか生まれてこなければよかったんや」と思いながら生きてきました。僕は、家族から暴力を受けながら育ったんです。母は兄にばかり愛情を注ぎ、僕は何をしても怒られた。

最初の記憶は幼稚園のときです。おもらしをした僕を怒鳴りつけながら、マッチで僕のお尻に火をつける母。ビンタされ、グーでどつかれ、「ずっと立っとけ」とトイレにとじこめられました。父は仕事ばかりで、家の中で顔を合わせることがあまりなかったんやけど、やはり暴力をふるいましたね。

兄からもやられっぱなしでした。兄は優秀だったんやけど、僕はあまり勉強しなかった。それで、中2のときかな、通知表の成績がオール3くらいだったんです。そしたらそれを見た兄に怒鳴られ、しばかれて。

だいぶあとになってから、「僕は虐待されてたんや」と気づくんですけど、当時はこの状態がおかしいとは思ってなかった。自分が悪いんやから、しばかれても仕方がない。子どもってどこのうちもこういうもんなんや、と考えて。近所に母方のおじいちゃん、おばあちゃんが住んでいたのですが、家でそんな目にあっているということは、一言も喋らなかった。

学校の先生も味方になってはくれませんでしたね。家で棒みたいのでバーンとつつかれてケガをしてしまい、学校でも痛くて泣いていたことがあるんです。そんな僕を見て先生が、「コケたくらいで泣かんときや」と一言。明らかにコケてできた傷ではないのに。

あまりに僕に対して厳しい母を見かねたのか、父が「おさむがかわいそうやないか」と一度だけ味方してくれたことがありました。そしたら母は激怒して、以来両親はめちゃくちゃ不仲になってしまった。

高校は、兄と同じ全寮制の学校へ入学しました。全然行きたくなかったけれど、「ほかの学校に行くなら学費は出さない」と母親に言われて。試験の成績を1番からビリまで貼りだすような学校で、僕は1年間ずっとビリやった。母と兄はぶちキレたけれど、できひんもんはできひん。それで退学し、1年遅れで公立高校へ入りなおしたのです。

寮ではなくなったので高校へは家から通うようになりましたが、それからはもう親とは一切かかわらなくなりましたね。母は弁当も作ってくれなかったので、つきあっていた彼女のお母さんが用意してくれた。家に帰れば自分の部屋にこもりきりで、家族の誰とも口をきかないで過ごすようになりました。

こんな日々を送りながら、「僕は絶対に結婚なんてせんとこう」と心に誓いましたね。夫婦仲が悪く、子どもがこんなにしんどい思いをして生きていかなあかんなんて、かわいそうすぎる。「子どもなんて作らんほうがましや」って。

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◆母と離婚した3日後、父は首を吊った

高校卒業後は、就職して中央卸売市場で働きました。仕事が休みの日もレストランで働いてお金を貯め、料理の勉強もして。それで23歳のときに、調理師免許を持っていた父親の名義で居酒屋を開業したんです。

店はけっこう繁盛してましたし、父はしょっちゅう飲みに来てくれはったんで、いろいろ話をしました。あるとき、「お前が中学くらいまでビシバシにしばいたりしていたのは、全部母さんに言われてやったことなんや」と言われました。「いやいやいや、それはないだろう、オレは親からされてきたことを一生忘れへんゾ」と口まで出かかったけど、かろうじて飲み込みました。

僕が繰り返し父に言ったのは、「早く離婚せや」ということ。そしたら僕は母や兄と縁を切れる。かといって別れたら父親の面倒を見ようとか、そんな気にもなれなかった。でも、父のためにも両親が別れるべきなのは確かやった。当時母親の攻撃の矛先は父親に向かっていたから。父のやることなすこと母は気に入らないみたいだったんです。でも財布は母が握っていたので、父は「離婚したら、お父さんは野垂れ死にや」とこぼしていました。

店を始めて3年目のある日、そんな父が、ベロベロに酔っ払って店にやってきた。そして「もうお母さんとは離婚や」と突然言い出したのです。僕は「これで家族と縁を切れる」とホッとしました。そんな言葉を交わした3日後、なんと父は首を吊って自殺してしまったのです。

父は我慢して我慢して、我慢ができなくなって死んだんだと思います。母との生活ですっかりうつ状態にもなっていました。ところが葬儀のとき、父方の親戚一同を前に母は「主人は心臓発作で死にました」とウソをついた。このとき、「お前をもう絶対に許さへんぞ」と思いました。このままにはしておけない。葬儀を終えてから、僕は全親戚に父が首吊り自殺であることを伝える手紙を送りました。

父方の親戚も「きっと自殺だろう」と気づいていたらしく、「よく勇気を出して言ってくれた」と感謝されました。でも、「もうあんな母親とは縁を切ります」と言うと、「血が繋がっているのだから、そんなこと言わずにがんばりなさい」と励まされてしまった。口では「はい」と答えたものの、そんなのもう無理やと思っていました。

四十九日で集まったとき、僕は母親に「お前のせいでこんなことになったんやろ! お前が死ね」と怒鳴ったんです。そのあと、「遺産は一切放棄します」と一筆書いて母に送りつけました。するとしばらくして兄から「お前の店は父さんの名義になってるやろう」と連絡がきたんです。とにかく縁を切りたかった僕は、「そうかい、わかったよ」と、その日のうちに居酒屋を畳みました。

◆親になる恐怖心から妻とも別れて

父が死んだことで、僕はすっかり生きているのがイヤになってしまった。手元にあった、まとまったお金を全部持ち、リュックには自殺用のロープだけを入れて東南アジアへと旅立つことにしました。死に場所を求めての旅。いい木があったらそこで首を吊ろう、それよりも先にお金がなくなったらそこで死ねばいいわ、と。こうして僕は、放浪の旅に出たのです。

半年くらいたったころ、ミャンマーのフェリーで偶然日本の方と乗り合わせました。最近日本で起きていることを聞いたら、「ダウンタウンの松本人志さんがドラマに出ていますよ」と言う。僕はダウンタウンがめちゃくちゃ好きだったのですが、ドラマには絶対出ないと著書にまで書いていたはずの松本さんが出るドラマってどんなのだろう、と。どうしても見てみたくなって、一時帰国を決意しました。(笑)

転がり込んだ友達の家で見たのが、ドラマ『伝説の教師』でした。松本さん演じる教師が、「人間に与えられた唯一の特権は笑うことや。眉間に皺寄せて苦しみながら死んでいきたかったら勝手にせえ。笑いながら死ぬか、笑わんと死ぬか、お前が決めたれ」というセリフがあって。僕の胸に、この言葉はグサッと突き刺さりました。と同時に、このとき芸人を目指すという道が見えてきたのです。

母や兄がどこに住んでいるのかは、芸人になってからも知らないままでした。でも、僕の中には母に対する怒りがずっとくすぶっていた。「この思いを払拭するためには会うしかないのではないか」と考えて、母親を探して会いにいったのは5年前のことです。

16年ぶりに再会した母は、開口一番、「ずっとお兄ちゃんばかりかまって、ホンマにあんたには何にもしてやらんかったことが心にひっかかっていた」と言いました。この時点で、母は自分のきょうだいからも総スカンをくらって孤立していたようです。なので、僕は母なりに反省しているのかと思い、「今芸人として楽しく過ごせているので気にしないでください」と答えました。

そしたら母は、「お兄ちゃんはあのあと、一流大学を出て海外に留学しはって、大企業に入って、今その国で出世して永住権もとって……」と、兄の自慢話を始めるじゃないですか。続けて「実はお母さん、去年再婚したんや」と言い、「相手は京都で事業をやっている人ですごいお金持ちで……」と、今度はその人の自慢話。

「ストーップ! もういいです。もう十分です」と。このとき、ホントにプツンと縁が切れた、と思いました。5年前のあの日、思い切って会ってよかったと今も思います。何年も抱えてきたモヤモヤが、会ったことでスッキリしました。今後、会うことは絶対にありません。

僕は小学生のときから、母を殺したいと思いながら生きてきました。何度も何度も「殺したろか!」と気持ちが高ぶった。でも、手にかけないですんだのは、僕が僕の人生に希望を持っていたからやないか、と思うのです。こんな母親でも、殺せば僕が罪人になる。自分の人生を台無しにしてしまう。それはイヤや。本当に大切なのは自分自身です。自分の人生を、親への憎しみのために失うわけにはいかんのですよ。

◆親になる恐怖心から妻とも別れて

小学生のときから「絶対に結婚はしない」と思っていた僕の結婚生活についても、お話ししなくては。結婚したのは2008年のことです。不安はもちろんありました。虐待を受けた人は、今度は自分が虐待をしてしまうと言いますよね。その不安は的中した。

結婚した最初の1年間くらいは──あ、もちろん、手はあげませんよ、手こそあげないけれども──妻を追い詰めてしまった。掃除の仕方、料理、洗濯、細かいことをいちいちとがめて。

そのことを指摘された僕は反省して、今度は彼女を娘のようにかわいがりました。洗濯でも料理でも全部僕がやって、すごく仲良くやってきたのですが、あるとき「子どもがほしい」と言われた。でも「それは無理や」と思った。ひとつには僕らはもう、親子のような関係だったこと。そしてもうひとつは、僕が父親になるのが怖かったこと……。

彼女は僕の生い立ちについてもよく理解してくれていたので、話し合いの末円満に離婚しました。彼女は再婚し、今は幸せにやっているようです。

これから先、家族を持ちたくないわけではありません。今つきあっている彼女もいるし、向こうもおそらく結婚したいんやろうなあと思う。でも、やはり父親になるのは正直怖い。この問題については、この先もまだ抱えていくことになるのでしょう。どうなるのか自分でもよくわかりません。

今は芸人としての仕事は少なくて(笑)、不定期でキックボクシングのトレーナーのバイトをやっているんです。ストレス発散になるのでいいバイトだと思いますよ。それから出版社の方からお話をいただいて、マンガを描いているんです。今お話ししたような僕の子どものころの話を、ポップに描けたらいいなあと思います。

今、幸せですか? とたずねられたら、やっぱり幸せなんだろうな。これは、家族と縁を切ったからこその幸せやし、自分の人生に希望を持ち続けたからこその幸せでもあると思います。

今、家族の問題でつらい気持ちでいる方はたくさんいらっしゃると思いますが、自分自身を大切にしてください。この闇から抜けたらきっと光があると、自分の人生に希望を持っていれば、いずれはきっとなんとかなります。

(構成=平林理恵、撮影=帆刈一哉)
若井おさむ

[出典:ガンダム芸人・若井おさむが語る親との確執「母を手にかけずにすんだのは、人生を失いたくなかったから」(婦人公論.jp)(Yahoo!ニュース > https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200421-00001849-fujinjp-ent ]

SNSでも、家族との問題で悩んでいる人の話をよく聞きますが、家族だからと無理に付き合う必要はないと思います。
これからは自分を大切に生きていってほしいですね。

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