中村俊輔が語る「中田英寿と本田圭佑」に続く中村俊輔選手の話です。
エースの座からサブへ。傷心の中村俊輔を救った川口能活の存在
6/17(日) 11:35配信
私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第6回
W杯で輝けなかった「エース」の本音~中村俊輔(3)
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p>2010年南アフリカW杯を目前にしての壮行試合、日本vs韓国が5月24日に埼玉スタジアムで行なわれた。
スタメン出場した”エース”中村俊輔は、足首を痛めていて満足のいくプレーができず、後半18分に交代した。試合も0-2と完敗。スタンドからは激しいブーイングが飛んだ。
「春先に足首を痛めて、W杯に向けて負荷を上げていったんだけど、何だったんだろうね……。体のバランスが崩れて、フィジカルが落ちていったのかなぁ……。Jリーグでは何とかできていたけど、(相手が)韓国ぐらいになるとごまかしがきかない。それが、モロに出てしまった」
それでも、中村はW杯本番に向けて気持ちを切り替えようとした。
その夜、宿舎でミーティングが行なわれた。
韓国相手にいいところなく敗れて、選手の間にも、これから戦いにいく世界の舞台に対する危機感が強まっていた。指揮官である岡田武史監督は、その空気を感じ取っていたのだろう。選手の前で、こう切り出した。
「俺は決断した。W杯仕様のサッカーに切り替える」
中村はそう言われた瞬間、「俺は、もうないな」と思ったという。
実は試合後、中村は厳しい表情の岡田監督にこう聞かれていた。
「足首、痛かったのか?」
「はい、少し」
中村がそう答えると、岡田監督はそのままひと言も発せず、その場を去った。
中村は失意のままスイス合宿に飛んだ。
面と向かって「おまえはサブだ」と言われたわけではなかったが、最後に発した監督の言動が何を意味するのか、中村にはおおよそ理解できた。現地に入って、足首などのリハビリに専念していたが、練習を見ていると、自分の居場所がないことをほぼ確信した。
中村の目に飛び込んできたのは、これまで採用したことがない戦術だった。システムは、4-1-2-3となり、中盤のアンカーに阿部勇樹が置かれた。
日を追うごとにチームは様変わりし、オーストリアで行なわれた国際親善試合のイングランド戦(1-2)からGKは楢崎正剛から川島永嗣に代わった。そして、本番直前の最後の調整試合となったジンバブエ戦(30分×3本、0-0)では、1トップが岡崎慎司から本田圭佑に代わった。
トップ下のポジションがなくなり、アンカー阿部の前にボランチの遠藤保仁と長谷部誠が配置され、右のサイドハーフに松井大輔、左のサイドハーフに大久保嘉人が入った。
また、キャプテンが中澤佑二から長谷部に代わった。
中村はアジア最終予選を戦ったチームの痕跡が、跡形もなく消えてしまったことに唖然とした。
「キャプテンがいつの間にか、ボンバー(中澤)からハセ(長谷部)になり、システムも変わった。正直、変化のスピードについていけなかった」
大胆な改革でチームに大きな動揺があったことは、想像に難くない。レギュラーを外された中村自身、心に深い傷を負っていた。
最初の頃は、悔しすぎて夜も眠れなかったという。
中村が座る食事のテーブルには、楢崎、中澤、田中マルクス闘莉王、川口能活らが一緒に座っていた。
川口は岡田監督から「第3GKで、チームのまとめ役として来てくれ」と言われ、考え抜いた末にメンバー入りを決断した。中村は、その役割を引き受けた川口を尊敬し、信頼していた。ベスト16入りした2002年W杯の、中山雅史や秋田豊の役割を果たすであろうことを、十分に承知していた。
中村と一緒にテーブルにつく面々も、いろいろなことをグッと自らの胸に押し込めながら、自分たちに課せられた”戦い”と闘っていた。
「能活さんがいて、ボンバーがいて、ナラさん(楢崎)がいた。半端ないストレスを抱えるなか、特に大きかったのは能活さんの存在だった。
能活さんは日本のために自分自身の身を削っていた。(自分は)ろうそくとなって、他人を明るく照らそうとした。犠牲心を持ってやれるか、という部分でお手本になってくれた。ほんと、助けられた」
いよいよW杯が開幕。これから試合が続いていく。
2006年ドイツW杯では、サブがまとまらず、初戦の敗戦をきっかけにしてチームが崩壊してしまった。中村は今回、そのサブに自分が置かれた。選手としてどう役割を果たすべきか、毎日考えていたという。
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p>「(2004年の)アジアカップのときかな……、マツさん(松田直樹)が(試合に出ている選手に)タオルを絞って渡したりして、そういうのを見ていたんで、わりとサブとしてやるべきことは理解していた。マツさんを見ていなかったら、きっと何をしていいのかわからなくて、ストレスだけを抱えていたと思う」
中村はどんなにつらくても、チームに反する態度だけは見せないようにした。大会を勝ち抜くには、自分たちのようなサブの選手の熱いサポートこそが大事――それは2002年、トルシエジャパンの映像からも垣間見ることができたし、ドイツW杯のときに実際に肌で感じて学んだことでもある。
中村は、犠牲心を持ってチームを支える覚悟を決めた。
W杯初戦のカメルーン戦の前には、中村たちサブ組は紅白戦で”仮想カメルーン”になって、レギュラーチームの相手になった。本気になってカメルーン選手の役を務め、「レギュラーの選手にもっとやらないといけない」と思わせるようなプレーをした。
自分のポジションに入った松井に対しては、「憎いとか、そんな感情は一切なかった」という。逆に、カメルーン戦での給水時に声をかけた。
「松井、(相手の)左サイドバックは、大したことない。ぜんぜんイケるぞ。ゴリゴリいけよ!」
そう中村に言われた松井は、大きく頷いてピッチに戻っていった。
当時を思い出して中村は笑ったが、現に松井は本田の決勝ゴールにつながるアシストを決めた。中村は、それが自分のことのようにうれしかったという。
そうして、劇的な本田の決勝ゴールで日本は勝利し、岡田監督は”賭け”に勝った。
「やったじゃん」
中村は、ベンチにいた川口や楢崎と喜びを分かち合った。今までの苦しみが、ほんの少し報われた気がした。
(つづく)
佐藤 俊●取材・文 text by Sato Shun
[出典:(webスポルティーバ)(Yahoo!ニュース > https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180617-00010005-sportiva-socc ]
コメント欄に書かれたコメントにグッときました。
「横浜でJリーグ優勝したい」
「ワールドカップで活躍したい」俊輔のこの2つの夢は叶わないまま。
ワールドカップ予選、チームの中心として本大会へ導いたのは俊輔。
それでも2度の本大会では噛み合わない。そしてトルシエ時代の落選。Jリーグ優勝、王手をかけた2013年、
年間MVPに輝く獅子奮迅の活躍を見せながら、
最終節に眼の前から消えてなくなったリーグ優勝。レッジーナ歴代ベストイレブン、セルティックのレジェンド、
俊輔ほどのプレイヤーが本当に欲しいものには手が届いてない。サッカーの神様は、いつも俊輔に厳しい。
でも、何度心を折られそうな経験をしても、立ち上がる。
それもまた中村俊輔。
まさに、記憶に残る名選手だと思います。
悔いの残らない現役生活を全うしてもらいたいです。
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