本能寺の変の黒幕は徳川家康!?「林修の今でしょ講座」
2017年2月7日放送の「林修の今でしょ講座 最新の知識が手に入る3時間SP」より
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今年の大河ドラマの主人公、女城主・井伊直虎。
実は男性ではないかという説が飛び出し、今研究者たちの間で論争が巻き起こっています。
そこで今回は緊急SP。
最新研究で、歴史ドラマの定説を疑う!
歴史ドラマが大好きな林先生が感じていた三大歴史事件の矛盾を徹底追及!
「桜田門外の変」「桶狭間の戦い」「本能寺の変」
東大歴史学者の本郷和人先生と共に徹底捜査すると、私たちが知っているドラマとは違う新事実が次々と明らかに!
明智光秀の「敵は本能寺にあり」の敵は織田信長ではなく、徳川家康だった!?
「敵は本能寺にあり」と言っても、「敵は信長」とは言ってないんですよね(林先生)
江戸幕府NO.2井伊直弼暗殺「桜田門外の変」。
実は井伊直弼は、刀で斬られていなかった!?
歴史の大事件を新証拠を元に、林先生と本郷先生が導いた新説!!
林修のここがおかしい!3大歴史事件
1「本能寺の変」
2「桜田門外の変」
3「桶狭間の戦い」
「本能寺の変」明智光秀はなぜ、最強信長を殺せた?
【本能寺の変の定説】
1582年、天下統一を目前に控えた織田信長でしたが、家臣の明智光秀が裏切り、1万3000人の兵で本能寺に攻撃を開始。
追い込まれた信長は自害しました。
【疑問①】なぜ信長はあっさり光秀に討たれた?
【疑問②】本能寺の変には黒幕がいた?
そもそも本能寺ってどんなところ?
本能寺の周囲には堀を巡らせてあります。
それから、堀の内側には高さ3メートルの土塀。
完全な要塞でした。
なぜ信長はあっさり光秀に討たれた?
本郷先生が新証拠として出してきたのはお茶入れ。
「楢柴肩衝」(ならしばかたつき)……肩の部分が角ばっている茶入れの器。三大肩衝の一つ。
信長は、三大肩衝の「新田肩衝」(にったかたつき)と「初花肩衝」(はつはなかたつき)の二つを持っていました。
それで、「楢柴肩衝」が手に入ったら、三大肩衝の三つが揃うということで、「楢柴肩衝」を手に入れるため、信長は本能寺で茶会を開きました。
さすがに茶会の時に、周りに兵隊がいたら台無しになるため、本能寺の警備は手薄だったのです。
本能寺の変には黒幕がいた?
広く考えられているのは、明智光秀の単独犯説。
高橋秀樹さん曰く「説は、僕の知っている限り、14~15あります」
最近書かれている本では、(黒幕が)千利休説というのも出ています。
林先生が黒幕と疑ったのは「豊臣秀吉」と「徳川家康」。
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黒幕は豊臣秀吉?
本能寺の変が起きたことで一番メリットがあったのは、どう考えても豊臣秀吉。
【豊臣秀吉の定説】
本能寺の変が起こった当時、備中で毛利元就と戦っていました。
信長の死を知るとすぐさま京都へ。
2万人の軍勢で200kmを7日間で移動しました。
世に言う「中国大返し」です。
林先生は、この中国大返しが、秀吉黒幕説の最大のポイントだと言います。
「2万人の兵士が重い鎧を着て200kmを7日間で歩くのは無理でしょ!」
当時の兵士は約20kgの武装をしていました。
しかし、本郷先生は「可能だ」と反論します。
この後秀吉は、柴田勝家と戦った時に同じ事をしています。
もの凄い距離を、すごい勢いで帰ってきています。
武装をいったん捨てさせ、走った後に、着いたところで新しい武装を着させました。
中国大返しの時も同じことをやった可能性があります。
本郷先生が証拠の品として出したもの「秀吉の弟・羽柴秀長の手紙」。
秀長が、近畿地方の地侍に宛てた手紙。
「あのときは、情報を送っていただき感謝しています」
その侍が、本能寺の変の情報を秀吉に伝えたことへの感謝の手紙でした。
このことから、京都周辺の侍などが、重要な情報をいち早く、秀吉に伝えた可能性があるのです。
物資も準備させることができたのではないかと。
農民出身の秀吉は、信長に認められて出世しました。
そのため、織田家の中では後ろ盾がいません。
信長がいなくなると、秀吉をかばう人間がいなくなります。
ここで明智光秀が権力を握ってしまうと、自分の順番が回ってこなくなるため、中国大返しの可能性はありだと本郷先生は言います。
黒幕は徳川家康?
家康は、信長の命令で、長男の信康と正室の築山殿を殺されています。
信康は、信長の娘・徳姫を嫁にしました。
その徳姫が、信長に手紙を書きました。
そこには、信康の母、つまり家康の正室は「悪い人」だと書かれていました。
要するに、嫁姑問題です。
信長に恨みがあってもおかしくない家康、動機は充分です。
「信長を討つ」と聞かされた光秀の部下はどう思った?
「信長を討つ」と聞かされた光秀の部下は、どう思うでしょうか?
逆に言えば、光秀軍は「信長を討つ」とは思っていなかったのではないかと。
光秀の家来・本城惣右衛門の証言》
「我々は信長を討ちに行くとは夢にも思わなかった」
突然、京都へ行くと言われ、信長様の命令で家康を討つものだと思っていたというのです。
「敵は本能寺にあり」と言っても、「敵は信長」とは言ってないんですよね(林先生)。
本能寺で警備が手薄だった理由は、家康を油断させるため!?
さらに、この時代を生きた江村専斉という医者が書き残した「老人雑話」には…
信長は秀吉に命じた、「家康を堺見物に連れて行け」と。
しかし、「家康が隙を見せたら殺せ」と命じていました。
信長が本能寺で警備が手薄だった理由は、あえて警備を薄くして隙を見せ、家康を油断させるためだったと考えることができると本郷先生はいいます。
信長にしてみれば、家康は怖い存在でした。
もしかしたら光秀は、家康に「お前、信長に命狙われてるぞ」と言われていたのではと考えることもできます。
命を狙われていると言われた光秀にとって家康は、同じく信長から命を狙われている存在。
「敵の敵は味方」ということになります。
ということから、家康が黒幕ではないかと林先生は推理しますが、あなたはどう思いますか?
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京の近くいた家康は…
謀反が起きましたら、近畿一帯ではカオスになる、例え軍を持っている小大名さえも自分の身を守れる自信がないのに(直ちに家族の出掛け禁止、道路封鎖、篭城準備するんだろう)。
そのただ数十人側にいる家康は謀反を加担するなんて、自滅以外他ならないんだろう?
加担していたのなら、事前に堺を離れるだろう、病気などの言い訳で、三河より近い所に移動するはず。
家康は確実に、事前に全く知らないだろう。
そのため、信長の家康暗殺説もおかしくなる。明智光秀は家康の暗殺を認めないなら、謀反事前、あるいは同時に家康に伝えるはず、なぜ家康をそんなに危険の状態に置きますか?
家康死んだら、誰がお得なの?内通だとしたら、家康の元に兵を派遣し、安全を保障する。もっといいやり方は、家康の身を確保し、人質として、三河の兵を動かすんだろう。
だから、明智光秀の謀反はかなり急遽なもの、宝ものの家康を捕まることも事前に手配しなかった。