人生で大事なことは○○から学んだ「風間トオル」2017年1月15日
2017年1月15日(日)「所&林修で新番組!人生で大事なことは○○から学んだ 2時間スペシャル」より
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人生で大事なことは「貧乏」から学んだ
風間トオルさんが貧乏から学んだこと、それは…
「大抵のことはなんとかなる」
バブルの全盛期に、ファッション誌やトレンディドラマで人気を博した風間さん。
現在は「科捜研の女」などに出演し、実力派俳優として活躍しています。
一方で、著書「ビンボー魂 おばあちゃんが遺してくれた生き抜く力」 (中央公論新社刊)で壮絶な貧乏体験を発表したことでも話題になっています。
風間さんの極貧生活が始まったのは、今から49年前の5歳のときでした。
両親が離婚し、どちらかを選ぶ究極の選択。
見知らぬ男と暮らす母か、両親と暮らす父か。
思い悩んだ末、慣れ親しんだ家族が多い父と暮らす道を選択。
ところが、1週間後、父も家を出て行きました。
その日から、祖父母と3人の生活がスタートしました。
充分なお米が買えず、食事は水を多めに炊いた柔らかすぎる「ご飯」と、唯一のおかずの「たくあん」。
育ち盛りのお腹を満たすことはできませんでした。
当時のアパートを訪ねた風間さん
風間さんが極貧生活を経験した舞台は、神奈川県川崎市中原区新丸子町。
風間さんは、祖父母と暮らしたアパートに来てみました。
当時住んでいたボロボロのアパートは残っておらず、建て替えられていました。
屋根も壁も錆びたトタンで覆われたアパートは、雨が降る度にそこらじゅうで雨漏りしていました。
ドリフターズのコントみたいに、バケツやどんぶりを置いていました。
風も家の中に通るくらい、隙間だらけのアパートでした。
その隙間からは、カマキリが家の中に入ってきていました。
風間少年は、そのカマキリをおやつ代わりに食べていました。
「硬いところを噛んでみたんですけど…。グリーンじゃないですか、だから野菜系だなと思って…。味はちょっと苦いですね」(風間)
風間トオル流「貧乏のしのぎ方」
6畳1間の古いアパートには、もちろんお風呂はありませんでした。
当然、銭湯に行くお金もありません。
しかし、風間少年は「お風呂がなくてもお風呂に入る方法」を考えました。
それはなんと、洗濯機に入るという荒業!
(水流を起こすモーターに触れないよう)足を両壁に突っ張って、石けんを手に持って入りました。
服を着たまま石けんを持って入ることで泡立ち、体と服が一度に洗えて一石二鳥!
しかし、洗濯機のお風呂では体は温まりません。
そこで、風間少年は「冬の寒さをしのぐ方法」を考えました。
その方法を実践していた場所は「公園」。
「砂場は特に、緊急な時に使える場所なんで…。枠があって風が来ないので、砂風呂みたいになって埋まると、風よけになって温かい」(風間)
まさに砂風呂。
大地のパワーで寒さをしのいだのです。
そして、寒さ以上に風間少年を悩ませたのが「空腹」。
家に「おやつ」はない。
おやつを買う「お金」もない。
風間少年は「タダでおやつを食べる方法」を考えました。
それは、当時近所にあった「焼き鳥屋」さんで見つけた方法。
しかし、焼き鳥を買うお金はありません。
「換気扇から出た煙が、裏にある草木に匂いがかかって、その草を食べると焼き鳥の味がする」(風間)
風間少年の目的は、「焼き鳥」ではなく、その「煙」。
それは無料の調味料。
換気扇の側に生えた草に煙がかかり、焼き鳥の風味がしたと言います。
「レバーや皮を焼いているときは、ちょっと脂っぽくておいしい」(風間)
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小学校での楽しみ
いつも通っていた小学校を訪ねた風間さん。
風間少年の一番の楽しみは「給食」。
給食は、家でろくに食べられない風間少年にとって、唯一満腹になるチャンスでした。
しかし、一人前では到底足りません。
そこで、風間少年は「給食でおなかいっぱいにする方法」を考えました。
その方法は、登校すると、自分のクラスだけでなく、他のクラスにまで足を運んで、「欠席者がいないか」毎日チェック。
余る牛乳やパンを確実に手に入れていました。
学校給食が、風間少年の成長を支えていたのです。
「カルシウム源でしたからね、牛乳が」(風間)
さらに、年に一度、風間少年のエネルギーを支える重要なイベントが…。
それは「バレンタインデー」。
カッコよくてモテモテだった風間少年。
多いときには40個以上のチョコをもらっていました。
ところが、知恵と工夫で貧しさを乗り切る風間少年。
もらったたくさんのチョコを、すぐに食べることはしません。
なんと、チョコを細かく365等分に割って冷蔵庫で保存。
1日1個ずつ、1年分のエネルギー源にしていたのです。
「毎日1個ずつ、糖分として摂っていました」(風間)
しかし、それだけチョコをもらうと大変なのが、翌月の「ホワイトデー」。
お返しを買うお金はありませんが、お返しをしないと来年の糖分・チョコがもらえない…。
風間少年は「お金がなくてもお返しする方法」を考えました。
お返しを手に入れる場所は、お店ではなく近所の「公園」。
そこで拾い集めたのが「松ぼっくり」。
それを家に持ち帰ると、絵の具で白く塗り、ヒモをつけて、手作りのアクセサリーとして女の子たちにプレゼントしました。
女の子たちには好評で、みんなランドセルにつけたりして、翌年のバレンタインデーにはチョコをもらえました。
「豊かになるためにはどうしたらいいんだろうということが、プラス幸せになってたんじゃないんですかね。色んなものを応用してきて、やっぱり考えは1つじゃなくて、色んな方向性があっていいんだなということは、子どもの時から教えられました」(風間)
どん底にあってもあきらめず、前向きに知恵をしぼり工夫をこらし、貧乏生活を乗り越えていった風間少年。
風間トオルさんは貧乏から学んだ「大抵のことはなんとかなる」
おばあちゃんから学んだこと
風間トオルさんがおばあちゃんから学んだこと、それは…
「お金の価値は使い方で変わる」
風間さんは、神奈川県川崎市中原区の常楽寺に来ました。
ここには、5歳の時から親代わりになって育ててくれた祖母が眠る墓があります。
亡くなった当時、風間さんには墓を建てるお金がなかったので、親戚が建ててくれました。
「俺の中の人間形成をして頂いたのはおばあちゃんでした。良いもの・悪いものを教えていただきました」(風間)
5歳から始まったおばあちゃんとの貧乏生活に転機が訪れたのは、20歳の頃。
貧しくてもイケメンだった風間さんは、アルバイト先でスカウトされ、モデルを始めました。
しかし、カメラなど買えない家で育った風間さんは、写真を撮られることに慣れていないので、ポーズのとりかたががわかりません。
でも「棒立ちでストンと立っているのが新しい」と言われ、それでいいよということに。
貧乏育ち故の自然体、うまくできないことが幸いし、一躍人気モデルの仲間入りを果たしました。
そして1989年、26歳のときにドラマ「ハートに火をつけて!」で俳優デビュー。
演技はひどいものでしたが、オファーはたくさんきていました。
当時世間はバブルの真っ只中。
日本中が好景気に浮かれていました。
風間さんのプライベートも、一気に華やかに。
ディスコのVIPルームで遊びまわる日々が続きました。
加熱したバブル熱は、多くの人たちの金銭感覚を麻痺させ、湯水のように湧いたお金を欲望のままに使う時代でした。
タクシーを止めるのに万札をヒラヒラ…。
しかし風間さんは、そうした浮かれた状態に、ずっと違和感を感じていました。
よく思い出していたのは、おばあちゃんとの暮らし。
貧しいながらも人情に厚かったおばあちゃんの生き様でした。
おばあちゃんの生き様
家に、カニの行商が訪ねてきた時のこと…
一度は断るも、相手の話に聞き入り、貧しい身の上に同情して、我が家も貧しいというのに、なけなしの生活費でカニを全て購入しました。
「財布をこうやってちょろっと見たら、最後5円くらいしか残ってなかったんですよね。それなのに全部買ってましたからね。次の日からどうするんだろうなと思って。そのカニをちょっとずつ食べるのかなと思ってたら、それを一気に蒸して近所の人を呼んで全部振る舞っちゃったんですよ。『これでおばあちゃん、どうすんの?』って聞いたら、『明日になったらなんとかなるよ』そんなおばあちゃんでしたね。次の日、近所の人がなんか持ってきてくれたりとかして。やっぱりそういう、人とのつながりというんですかね。持ちつ持たれつみたいな。そういう生活を大事にしてたんじゃないですかね」(風間)
風間トオルさんはおばあちゃんから学んだ「お金の価値は使い方で変わる」
世の中がバブルに湧く中、おばあちゃんの生き様を思い出した風間さんは、その浮かれた生活に背を向けました。
演技と真剣に向かい合い、実力派俳優として新境地を切り開きました。
トレンディードラマ初出演から5年の1994年、映画「わが愛の譜 滝廉太郎物語」で、日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞。
芸能生活34年、現在も芸能界で活躍しています。
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