伊達政宗は、世渡り上手で名将に!?「林修の今でしょ講座」
2017年1月24日放送の「林修の今でしょ講座」より
Sponsered Link
p>
この5年で、歴史学者が衝撃を受けた新資料・新証拠が次々発見されています。
その中から、歴史学の権威・東京大学の本郷和人教授が価値を認める重大資料をランキングで発表します。
教科書が変わる!?歴史ニュース
この5年で見つかった重大資料BEST5
第5位 2015年発見「東北最強武将・伊達政宗が豊臣秀吉に送った書状」
栃木県立博物館が戦国時代の手紙を入手。
調査の結果、伊達政宗が豊臣秀吉に送った直筆の手紙だったことが明らかに。
そこには、伊達政宗が天下統一を目前に控えた豊臣秀吉に遅れる理由などが書かれていました。
しかしなぜ、この手紙が重大発見なのでしょうか?
そこには、強い武将として知られる伊達政宗の意外な素顔が明らかに…。
伊達政宗が大きな戦で勝利したのは1回だけ
伊達政宗(1567年~1636年)
強いというイメージがありますが、伊達政宗が大きな戦で勝利したのは1回だけです。
小さな戦いでは結構勝っていますが、大きな戦いは、会津を奪い合いした「摺上原(すりあげはら)の戦い」で1回勝っただけです。
【摺上原(すりあげはら)の戦い】1589年。
伊達政宗と会津の蘆名義広(あしな・よしひろ)との戦い。
政宗はこの戦いに勝利し、東北最強の名を手にしました。
東北地方を統一したのはこの戦いによってでした。
しかし、全国的にはあまり大きな功績を残してはいませんでした。
なぜ政宗は、現代にまで語り継がれる名武将になったのでしょうか?
その理由を、2015年に発見された手紙から読み解くことができます。
全国的な功績のない政宗が名将と語り継がれる理由とは!?
それは「戦国一の世渡り上手」だったからです。
政宗は、権力者の懐に入るのが上手かったのです。
豊臣秀吉、徳川家康、2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光にまでわたって気に入られました。
特に3代将軍・家光には「仙台の爺」と言われ、とても気に入られていたのです。
遅刻すれば打ち首獄門!?
2015年に発見された手紙は、秀吉に呼び出された政宗が遅刻し、急いで「ごめんなさい!!」と書いて渡した手紙です。
この頃の豊臣秀吉は専制君主です。
遅刻などしようものなら、打ち首獄門、そうでなくても、お家取り潰しはありました。
政宗が秀吉に許してもらうための手紙の内容とは?
Sponsered Link
p>
政宗が秀吉に宛てた手紙
いま秀吉様の元へ 昼夜問わず 徹夜で向かっています。
でも人も馬も疲れ切ってて大変で…
どうしても間に合わないんです!
秀吉様がすでに 昨日(宇都宮に)到着したことは、本日部下から聞いたばかりで…
私も急いで向かっています!
明日の10時頃には到着できるかと思います!
詳しくは面会したときに話します!
政宗は、この手紙を書いて秀吉に許してもらっています。
秀吉は政宗を可愛がっていました。
「政宗がここまで人に謝っている文献は珍しい」と本郷先生は言います。
秀吉の呼び出しから約半年の遅刻!?
実は、政宗が遅刻したのはこの時だけではありませんでした。
遅刻の常習犯だった政宗は、もっと大変だった時がありました。
豊臣秀吉が北条氏に勝利して天下統一を決めた戦い「小田原攻め(1590年)」
この大事な時にも、政宗は大変な遅刻をしていました。
それは、秀吉の呼び出しから約半年の遅刻でした。
秀吉はもうカンカンでした。
その中で政宗は、あることをして、秀吉の許しをもらうばかりか、そのことによって、全国の武将に一目置かれる存在になりました。
約半年の遅刻 政宗が秀吉に許してもらうためにとった行動とは!?
政宗は「首をはねてくれ」と、白装束を着て謝りました。
この時、政宗は秀吉の気持ちがわかっていました。
秀吉にしてみれば、当時の東北は田舎でした。
伊達政宗のような力を認めた奴を殺してしまうと、東北地方が荒れてしまい乱れてしまいます。
それよりも、政宗を生かしておいて、東北地方を治めさせる。
その気持ちを政宗はわかっていたのです。
Sponsered Link
p>