坂本龍馬の独創的な考えは○○○○の影響!?「林修の今でしょ講座」
2017年1月24日放送の「林修の今でしょ講座」より
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この5年で、歴史学者が衝撃を受けた新資料・新証拠が次々発見されています。
その中から、歴史学の権威・東京大学の本郷和人教授が価値を認める重大資料をランキングで発表します。
教科書が変わる!?歴史ニュース
この5年で見つかった重大資料BEST5
第2位 2016年発見「幕末のカリスマ・坂本龍馬 商売の才能がわかる手紙」
杏林大学の教授が自宅の倉庫に20年以上眠っていた資料を調べたところ、なんと坂本龍馬が勝海舟に宛てた手紙だったことが明らかになりました。
そこには非常に珍しい、龍馬の外国貿易に関する具体的な記述が書かれていました。
なぜこれが重大なのでしょうか?
その理由は「坂本龍馬の考えは【ある人物】の影響を受けていることがわかる」からです。
坂本龍馬(1836年~1867年)と言えば、薩長同盟に尽力し、海援隊でも有名です。
誰もが考えもしなかった新しいアイディアで時代を切り開き、日本を江戸から明治へ導いた誰もが認める幕末NO.1ヒーロー!
しかし、本郷先生によれば、発見された手紙を読み解くと、時代の先を行く独創的な龍馬の考えは《ある人物の考え》をマネしたことがわかると…。
龍馬は何もしていない!?
本郷先生曰く「学問的に純粋に見ると、龍馬は何もしていない」
つまり、歴史で取り上げられるようなことはしていないと。
本郷先生の時代の教科書には、龍馬は書かれていませんでした。
あまりに社会で取り上げられ、ヒーローになったので、今は逆に教科書で取り上げるようになったのです。
2016年に発見された文献には、具体的にどんなことが書かれているのでしょうか?
坂本龍馬が勝海舟に宛てた手紙
「黒龍丸」を軍艦として使ってしまったら、上海や朝鮮、対馬や函館に自由にいけなくなってしまう
「大砲を積まずに荷物を積んで、いろんなところで商売をしよう」ということを龍馬は言っています。
そのほかにも、当時未開の地だった北海道の開拓構想など、時代を切り開いてきた龍馬らしい優秀な意見が書かれていましたが…。
本郷先生によると、独創的と思われる手紙の内容こそが、龍馬が《ある人物の影響》を大きく受けていた証だというのです。
最近また発見された手紙には!?
2017年1月13日にも、龍馬の手紙が発見されています。
龍馬が、越前福井藩の由利公正に宛てた手紙です。
「新しい政府が出来たら、しっかりと財政をやりましょう」という内容でした。
財政を考えるというのは当たり前のことですが、龍馬が言っているというだけで「龍馬は明治時代の財政のことまで考えていた」と大きく話をふくらましてしまうのです。
「龍馬がやる」というだけで「すごいことだ」と言われていたのです。
実際は、龍馬以外の人も当然考えていたことなのですが…。
独創的な龍馬が実は影響を受けていた人物とは!?
手紙に書かれていた龍馬の考え。
これは、龍馬の考えだけじゃない。
龍馬にものすごく影響を与えていた人がいる。
その人の計画と全く一致している。
実は、北海道貿易で莫大な利益を上げていた藩があります。
その藩の指導者…。
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龍馬が影響を受けていたのは「西郷隆盛」でした。
薩摩藩は、北海道と交易していました。
1840年ぐらいから、薩摩藩は北海道を「日本の宝蔵」と見立て、幕府に北海道開拓の重要性を説いていました。
1840年と言えば、坂本龍馬は赤ん坊でした。
手紙に書かれていたことは、龍馬自身の考えというよりは、薩摩藩が考えていたことでした。
当時薩摩藩は、いち早く北海道の海産物(主な貿易は昆布)に目をつけ、日本海側の輸送航路を確立。
日本国内はもちろん、中国とも貿易を行い、莫大な利益を得ていました。
龍馬が勝海舟への手紙に書いた「北海道開拓構想」「貿易航路」は、西郷率いる薩摩藩のものとほぼ一致しているのです。
そういう意味でいうと龍馬の手紙は、「薩摩藩の北海道貿易の一部」と言うことができます。
このときまだ、西郷と龍馬は会っていません。
会ってはいませんが、それを龍馬は取り入れました。
龍馬が西郷に会うのは、この手紙から2か月後くらいのことです。
龍馬は西郷に惚れ込み、尊敬するようになります。
西郷も龍馬を可愛がりました。
龍馬は西郷のために一生懸命働くようになります。
この手紙から、龍馬は西郷に出会う前から影響を受けていたことが推測できるのです。
その後龍馬は、最大の功績とも言われる薩長同盟成立の仲立ち(1866年)
さらには、日本最初の株式会社と言われている海援隊の設立(1867年)などを行いました。
その影には必ず、西郷の姿があったのです。
「龍馬を操っていたのは西郷」「龍馬に影響を与えたのは西郷」と言えます。
龍馬は素晴らしい会社員!?
本郷先生曰く「龍馬は素晴らしい会社員」
決断をする重役ではなく、会社に勤める社員。
社員としては非常に優秀でした。
商売の才能がありました。
西郷が惚れ込んだのは、龍馬の「頭のキレ」と「行動力」でした。
龍馬は、ひと儲けをしようと、船をロシアの商人から買い付けます。
ところがお金を払えません。
買ったはいいが、船を差し押さえられます。
龍馬は、他で借りた船を使って、お金を作る計画を考えます。
「いろは丸」という船を使って考えたその計画とは!?
龍馬が「いろは丸事件」でお金を手にいれた方法とは!?
それは「事故を起こして賠償金を手に入れた」でした。
1867年、海援隊を乗せた「いろは丸」は、瀬戸内海で紀州藩の船と衝突して沈没してしまいます。
そこで龍馬は紀州藩を相手に、沈没していた船代と、そのとき積んでいた「大量の銃」などの賠償金を請求しました。
龍馬は裁判に勝利し、多額の賠償金を手に入れました。
ここで終われば普通の事故だったのですが…。
本当の積荷は…!?
実は、龍馬の元同僚だった土佐藩幹部・後藤象二郎が残した記録によると、積荷はなんと「米と砂糖」だけ!
つまり、龍馬が主張した「大量の鉄砲」は積んでいなかった!?
もしこの証言が本当ならば、龍馬は紀州藩から多額の賠償金をダマしとったことになります。
近年、実際に海底に沈む「いろは丸」を調査したところ…。
「武器」も「お金」も積んではいませんでした。
今のお金で約150億円を、紀州藩から手に入れたのです。
龍馬は「ずる賢い」ところがあると言えるかも知れません。
それほど頭はキレたのです。
西郷隆盛の考えが一つ一つ形になっていくためには、近代日本に坂本龍馬みたいな人は必要だったのかも知れません。
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