忘れ去られたメダリスト 秘められた衝撃の過去「奇跡体験!アンビリバボー」
2017年1月26日(木)「奇跡体験!アンビリバボー」より
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オリンピック史上最も有名な写真
今回のアンビリバボーの舞台は「メキシコオリンピック」です。
1968年、メキシコオリンピック陸上競技男子200m走での表彰式。
そこで撮影された写真は、オリンピック史上最も有名な写真です。
2人のアメリカ人黒人選手が、天に向かって拳を突き上げています。
金メダルのトミー・スミス、銅メダルのジョン・カーロスです。
彼らはこの行為によって、世界中から非難され、迫害され、壮絶な人生を歩むことになりました。
しかし、彼らよりももっと過酷な人生を歩むことになったのは、銀メダリストの白人選手でした。
彼は、オーストラリア人のピーター・ノーマン。
陸上競技男子短距離走でのメダル獲得は、オーストラリア初の快挙。
祖国に帰れば英雄のはずだった彼は、《ある行為》によって過酷な人生を歩むことになったのです…。
12歳のマットが大好きなピーター伯父さん
1983年、オーストラリア・ビクトリア州。
今から34年前、12歳の少年マット・ノーマンは、伯父ピーターの家に足繁く通っていました。
当時41歳のピーター・ノーマン。
マットは、高校で体育を教えている伯父が大好きで、伯父が出場したオリンピックのレースの話を聞くことが大好きでした。
ピーターは、15年前のオリンピックで銀メダルを獲得したトップアスリートでした。
しかし、マットにはある疑問が…。
誰も、ピーター・ノーマンという陸上選手がいたことを知らないのです。
陸上のオリンピックメダリストともなれば、国の英雄となり、引退後は大学やナショナルチームのコーチに招かれたり、政治家やテレビのタレントになったりして、みんな活躍していました。
しかし、銀メダルを取ったはずのピーター・ノーマンの名前は、オーストラリア人でさえ知る人はほとんどいませんでした。
彼は、高校で体育を教える傍ら、精肉店でアルバイトをして生計を立てていたのです。
マットはある日、祖母に「ピーター伯父さんって、本当にオリンピックで銀メダル取ったんだよね?どうしてみんな伯父さんのことを知らないの?」と聞きました。
祖母は言いました。
「それはね、ピーターが…正しいことをしたからなのよ。直接聞いてごらんなさい」
そしてマットは、ピーターにそのことを尋ねました。
ピーターはマットに、驚くべき物語を語り始めました。
「人間は皆平等」という父の教え
今から75年前の1942年。
ピーターは、オーストラリアのメルボルン郊外で、貧しい労働者階級の家に生まれました。
走るのが大好きだったピーター。
シューズを買ってもらえないほど貧しかったですが、地元の陸上チームで活躍していました。
しかし、当時のオーストラリアには、彼よりも不幸な人々が大勢いました。
当時のオーストラリアには、先住民のアボリジニやアジア系移民など、有色人種への差別が色濃く残っていました。
それは、イギリスの植民地だった18世紀からの【白豪主義】(アボリジニやアジア系民族など、白人が有色人種を差別する考え)の政策によるものでした。
何事にも白人が優先。
有色人種はオーストラリアの市民権が得られないなど、長年、法的にも迫害されていたのです。
しかしピーターは、敬虔なクリスチャンだった両親と共に、貧しい有色人種の人々に炊き出しを行なっていました。
白人でありながらも、決して差別することはありませんでした。
他の白人たちは、そんな彼らのこともバカにしていましたが、父はいつもピーターに、こう言い聞かせていました。
「いいか、ピーター。肌の色や生まれた場所なんか関係ない。人間はみんな平等なんだ。それをいつも忘れるな」
しかしこの時、彼はまだ知る由もありませんでした。
父親から受け継いだこの信念を、後に思いもよらない場所で試されるということを…。
「あんたは人権を尊重するか?」
小学校を卒業後、家計の為に精肉店で働き始めたピーターでしたが、仕事の傍ら、大好きな陸上だけは続けていました。
リレーの選手として頭角を現すと、やがて200M走に転向、するとその才能が一気に開花!
ついに、オリンピック代表に選ばれたのです。
そして1968年、メキシコオリンピック開幕。
しかし、この時ピーターは、母国オーストラリアでさえ、全く期待されていませんでした。
なぜなら、当時の陸上短距離はアメリカが絶対王者として君臨していて、特にピーターが出場する男子200Mは、世界記録保持者ジョン・カーロスを始め、トミー・スミスら3名のアメリカ勢が表彰台を独占すると予想されていました。
ピーターは予選突破さえ危ぶまれていたのです。
しかしピーターは、予選をいきなりオリンピック記録更新となる20秒20で走り、その後準決勝を突破、ついに決勝進出を決めました。
そして決勝前日。
ピーターは、ジョン・カーロスとトミー・スミスに話しかけました。
お互い話すのは初めてでしたが、ピーターの気さくな人柄もあり、3人はすぐに、古くからの友人のように打ち解けました。
そのときジョンは、ピーターにこう問いかけました。
「なあ、ピーター。あんたは人権を尊重するか? オレら2人は表彰台に立ったら、アレをやってやるつもりだ。あんたは、もし表彰台に立ったら、どうする?」
ピーターは知っていました。
アメリカの黒人選手にとって、このメキシコオリンピックには「特別な意味」があることを…。
自由の国・アメリカに吹き荒れる「人種差別の嵐」
今からわずか50年余り前のこと、自由の国・アメリカには、《人種差別の嵐》が吹き荒れていました。
バスや公衆トイレにさえ、白人優先席が存在、ホテルやレストランも有色人種の入店を拒否するなど、人種差別が公然と法律で認められていたのです。
そんな中、人種差別に反対する「マーティン・ルーサー・キング牧師」らの運動により、1964年に「公民権法」が制定。
【21世紀への伝言5/5【非暴力・不服従】ガンジーとキング牧師】
有色人種の選挙権が保証され、公共施設での差別も禁止されました。
「これで人種差別はなくなる」はずでした。
しかしその後も、人種差別感情が収まる事はなく、黒人へのリンチや暴行、彼らの商店や住居への放火が継続的に発生しました。
そして、メキシコオリンピックの半年前に、決定的な事件が起きたのです。
それは「キング牧師の暗殺」でした。
黒人たちの精神的支柱になっていた指導者を殺害され、彼らの怒りは頂点に達しました。
黒人アスリートたちは、メキシコオリンピックのボイコットを検討しました。
国内で横行する差別に目を背け、「メダル獲得の為だけに平然と黒人選手を送り込むアメリカ社会」に抗議する意志を示そうとしたのです。
しかし、その動きは、スポーツの政治利用を禁じるオリンピックの精神に反するとして、国際的な批判を浴びることになりました。
この事態を受け、黒人選手たちの意見は割れました。
「ボイコットすべきだ」という者と「今後の人生を考え出場すべきだ」という者に…。
そして、ジョンとトミーの2人は、出場する道を選びました。
そのときすでに、彼らは「ある決意」を胸に抱いていたのです。
オーストラリア初の快挙!
いよいよ迎えた男子200M決勝、運命のレースがスタートしました。
先行したのは世界記録保持者のジョン・カーロス、その後をトミー・スミス。 ピーター・ノーマンは出遅れたかに見えた。
しかしピーターは、大外から物凄い追い上げをかけます。
【peter norman olympic games salute】
1位はトミー・スミス。
そしてなんと、ピーター・ノーマンは、世界王者ジョン・カーロスを抜き、2位に入りました。
自ら予選で出したオリンピック記録を上回る、20秒06。
1位のトミーとともに、当時の世界記録を破ったのです。
しかも、男子短距離走でのメダル獲得は、オーストラリア初の快挙でした!
コーチはピーターに駆け寄り、言いました。
「すごいぞピーター。明日の朝刊が出れば、お前は英雄だ」
そしてその後、こう釘を刺しました。
「いいかピーター。やつらが何をやっても無視するんだ。お前はオーストラリアの英雄なんだ。巻き込まれるな」
オリンピックの花形・陸上短距離で銀メダルを獲得したピーターの将来は、もはや約束されたようなもの。
もう、アルバイトしながら走る必要などなくなる…。
表彰台こそ絶好のチャンス!
表彰式の直前、ジョンとトミーの二人は、すでに決意を固めていました。
表彰台の上で、メダリストたちはつかの間の自由を得ます。
しかも、その瞬間は生中継され、6億人もの人々が、固唾を飲んで見守ります。
さらに写真となると、それこそ全世界に配信されるのです。
つまり表彰台こそ、アメリカにおける黒人の悲惨な状況を訴え、差別と闘う意志を世界に訴える絶好のチャンスなのです。
しかし、オリンピックの理念としては「全てのエリアにおいて、いかなる種類のデモンストレーションも、いかなる種類の政治的、宗教的、そして人種的な宣伝活動も認められていない」
もし実行した場合、まだ24歳(トミー)と23歳(ジョン)の若い2人のアスリートは、オリンピックから永久追放されるだけでなく、他のいかなる大会に出ることも許されず、選手生命が絶たれてしまうのです。
それでも彼らは、同胞たちの苦しみを世界に訴えるために、胸に人種差別へ抗議する団体「人権を求めるオリンピックプロジェクト」のバッジをつけ《あるパフォーマンス》を行おうとしていました。
父から受け継いだ信念が試される時
するとピーターが、2人のところにやって来ました。
ピーター「それで、どうすればいい?俺は表彰台の上で、何をすればいい?」
ジョン「すまん。あの時言ったことは忘れてくれ。俺たちの問題だ」
トミー「白人の君は知らないフリをしてればいい。オレたちは本気なんだ」
このとき、ピーターは思い出していました。
子どものころ、父に言われた言葉を。
”いいか、ピーター。肌の色や生まれた場所なんか関係ない。人間はみんな平等なんだ。それをいつも忘れるな。”
ピーター「ジョン、トミー。俺も本気だよ」
【Blowin’ in the wind (Cover) Bob Dylan 風に吹かれて ボブ・ディラン】
そしてピーターは、2人と同じバッジを胸につけることにしました。
バッジを胸につけることは、2人の行為に賛同することを意味していました。
ついに始まった表彰式
1968年10月16日。
世界が注目する中、表彰式が始まりました。
ジョンとトミーの2人は、靴を脱ぎ、黒い靴下で表彰台に登りました。
これは、アメリカの黒人が、差別によって貧困に苦しんでいる現状を表現。
そして、黒人であることの誇りと、彼らと共に立ち上がる意志を訴える為に、頭を垂れ、黒い手袋をはめた手を、天に向かって突き上げました。
そして2人の隣には、あのバッジをつけたピーター・ノーマンが立っていました。
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「人間はみんな…平等なんだ」
マットは伯父さんに「どうしてそんなことをしたの?」と尋ねました。
ピーターはマットに言いました。
「マット、見て見ぬフリをする事は出来ない。それは、ジョンやトミーを差別する白人たちと、俺が同じだと認める事になる。肌の色や生まれた場所なんて関係ない。人間はみんな…平等なんだ」
ピーター・ノーマンさん≫
「トミーとジョンは、私にとってヒーローでした。彼らは、全てを失う覚悟で拳を突き上げたのです。それに比べたら、私がした行為なんて大した事ではありません」
この一枚の写真は「ブラックパワー・サリュートThe Black Power Salute」と呼ばれ、黒人の誇りと威厳を主張し、《差別に抗議する意志の象徴》として世界中に配信され、大きな注目を浴びることになりました。
この後、予想通り、トミーとジョンには《地獄のような日々》が待ち受けていました。
しかし皮肉な事に、最も過酷な人生を歩む事になったのは、白人のピーター・ノーマンだったのです。
ピーターに待っていた過酷な日々
この一枚の写真「ブラックパワーサリュート」の反響は予想以上でした。
瞬く間に世界中に配信され、賛否両論の嵐を巻き起こしたのです。
しかし、国際オリンピック委員会は、その理念に反するとして、ジョンとトミーをオリンピックから永久追放することを決定。
2人は、閉会式に出ることさえ許されず、その翌日、アメリカに強制帰国させられてしまいました。
一方、その日、オーストラリアではピーターの史上初の快挙が大々的に報じられ、マスコミと国民は熱狂。
15日間の開催期間を終え、晴れて彼は帰国の途についたのですが、空港で待ち受けていたのは、母と妻、そして友人がわずかに数名のみでした。
そこに、マスコミやファンの姿はありませんでした。
実は、ピーターが、表彰式で黒人2人が行なったパフォーマンスに賛同の意志を示した事実が報道されると、賞賛は一変。
未だ白豪主義を貫くオーストラリアのマスコミは、ピーターをこぞって叩き始めたのです。
事態はそれだけにとどまらず、自宅に何通もの脅迫状が届くようになりました。
そして、嫌がらせが一段落すると、待っていたのは「徹底した無視」でした。
マスコミや国民のみならず、隣人ですら、彼の偉業をまるで「なかったこと」のように扱ったのです。
ピーターはその後、妻とも上手くいかなくなり、離婚。
職を転々とするようになりました。
「走ること」も奪われたピーター
そんな彼を唯一支えるもの、それは「走ること」でした。
ジョンとトミーは、永久にオリンピックから追放されましたが、ピーターにはまだ、オリンピック出場の権利が残されていたのです。
夢の舞台へ向け、練習を重ねたピーターは、オーストラリア国内の大会で何度も優勝し、世界ランク5位を維持し続けました。
そして迎えた1972年。
ミュンヘンオリンピックが開催されるこの年、ピーター・ノーマンは30歳になっていました。
それでも、4年間でオリンピック派遣の標準記録を13回突破するなど好調を維持、彼のオリンピック出場は確実に思えました。
しかし、オーストラリアは、ミュンヘンオリンピックの陸上男子200Mに、なぜか「自国の選手を派遣しない」と発表。
ピーター・ノーマンさん≫
「ミュンヘンオリンピックには本当に出たかった。だがこの仕打ちは、私に陸上界からの引退を決意させるには十分でした」
「伯父さんの心は満たされているよ」
こうして、銀メダリスト「ピーター・ノーマン」の名は、オーストラリアの人々から完全に忘れ去られてしまうことになりました。
マットはピーターに尋ねました。
「おじさん、後悔していないの?」
ピーターは答えました。
「確かに俺は、得るはずだった色んなものを失ったのかもしれない。でもな、マット。伯父さんの心は満たされているよ。俺は、自分の信念を貫き通せた。その事を、母さんやマット、アメリカのジョンとトミーも分かってくれている。それで十分だ」
アメリカのジョンとトミーは!?
アメリカのジョンとトミーは、メキシコオリンピックから帰国後、想像を絶する苦難を味わっていました。
2人ともに勤め先から解雇され、貧困に苦しむ生活。
さらに、家族への差別・脅迫も相次ぎ、ついには、ジョンの妻が自殺する悲劇まで起こってしまいました。
それでも、3人の友情は途切れることはなく、事あるごとに手紙や電話で連絡するという関係が続いていました。
ジョン・カーロスさん≫
「ピーターとお互いの状況を話し、励ましあったんだ」
名誉が回復されたジョンとトミー
そして、1970年代も半ばになると、アメリカでは次第に、黒人の人権が認められるようになりました。
その結果、2人を「人種差別と闘った英雄」として評価する声が高まり、彼らの名誉は、徐々に回復されていきました。
しかし、ピーターの名誉だけは回復される兆しはなく、時間だけがいたずらに過ぎていきました。
「勇気と信念」をもって、黒人差別へ反対の意思を表明したピーター・ノーマン。
その人生は、誰にも知られず永遠に葬り去られる、かに思えました…。
しかし、メキシコオリンピックから33年が過ぎた2001年、1人の人物が、ピーターの名誉を回復する為に立ち上がったのです。
その人物とは、あの…
ミュンヘンオリンピックを機に、現役を引退したピーター。
その後、若い頃の無理がたたったのか、ふとした拍子に、アキレス腱を断裂。
大量に処方された痛み止めが原因で、以来、健康が優れずにいました。
しかし、そんな彼の身にある変化が。
ピーター・ノーマンのドキュメンタリー映画を制作しようと、一人の若手映像作家が立ち上がったのです。
実は、ピーターの元に足繁く通っていた甥のマット少年は、テレビドラマなどを制作するフリーランスの映像作家となっていました。
マット・ノーマンさん≫
「詳しい話を伯父から聞くにつれ、みんなに知ってほしい物語だと思いました。伯父はどんな代償を払ったのか?そして彼のした事が、どれほど大変で勇気ある事だったか?それを伝えられるのは、ディレクターの自分しかいない、そう思ったんです」
簡単ではない映画製作の道のり
しかしそれは、簡単なことではありませんでした。
「忘れ去られた銀メダリスト」の映画に、興味を持つ製作会社など、どこにもなかったのです。
しかし、マットは諦めませんでした。
映画で、オリンピックなどの様々な映像を使用するには、多額の費用がかかります。
関係者への取材や撮影費などと合わせると、製作には、約2億円が必要でした。
その資金を捻出するには、相当な時間もかかります。
マットは、自らスポンサーを探す一方、自腹を切ってまで、映画製作に取り組みました。
マット・ノーマンさん≫
「伯父がした苦労に比べたら何でもない。ピーターの信念を貫くという事の意味を、どうしても問いかけたいと思った」
「ごめん伯父さん、間に合わなかった」
製作開始から、あっという間に5年近くが過ぎ、ピーターはすでに64歳になっていました。
マット「もう少しだからね、ピーター伯父さん」
ピーター「無理するなマット。もう十分だ」
マット「伯父さん…」
ピーター「お前が、私の事を世間に知ってもらおうと必死にやってくれてる、それで十分だ。その事が私は、何よりも嬉しいんだよ。ありがとう、マット」
そんなある日のことでした。
マットのもとに1本の電話が。
「えっ!?ウソでしょ?……伯父さん…。ごめん伯父さん、間に合わなかった。伯父さん、本当にごめん」
2006年10月3日、ピーター・ノーマンは、心臓発作で突然この世を去りました(享年64歳)。
アメリカから駆けつけたジョンとトミー
出棺の時、その棺に付き添ったのは他でもない、ジョンとトミーでした。
2人は急遽、アメリカから駆けつけたのです。
そして、長年の友に弔いの言葉を贈りました。
ジョン「私たちは素晴らしい戦友をなくした。」
トミー「ピーターは道しるべだ。表彰式のあの行為は後世への遺産だ。誇りを持ち、信じていればきっと報われる」
ついにドキュメンタリー映画が完成!
ピーターの死から2年後の2008年6月8日。
マット・ノーマン監督のドキュメンタリー映画が完成し、オーストラリアで公開されました。
「敬礼」を意味する「サリュート」と題された映画は、当初、わずか15館の公開だったにも関わらず、口コミで評判が広がり、観客数は徐々に増加しました。
反響は当初の予想を越え、遠く海外からも公開を希望する声が届くまでになり、最終的に「サリュート」は、アメリカをはじめ世界6カ国で上映されました。
しかもその年、オーストラリアの国内外で、8つの映画賞を受賞したのです。
こうしてオーストラリアだけでなく、世界中の人々がピーター・ノーマンの名と、彼の物語を知ることになりました。
マット・ノーマンさん≫
「たくさんの人にこの映画を見てもらい、伯父の行為を伝える事が出来ました。だけど私にとって一番心残りなのは、ピーターにこの作品を見せる事が出来なかった事です」
ついに回復されたピーターの名誉
その4年後の、2012年8月12日。
あるニュースが、オーストラリア中を駆け巡りました。
オーストラリア議会は、ピーター・ノーマンの名誉を回復するための動議を採択。
証人として、母・セルマさん(91歳)を招きました。
その上で、議会は…
「一人の行為で世界を変えられる事を、彼は教えてくれました。彼の意思は受け継がれていくでしょう。ピーターがオーストラリアで受けた扱い、また亡くなる前に表彰台で行った行為が評価されなかったことについて謝罪します」
オリンピックの舞台で、自らの信念を貫いたピーター・ノーマン。
彼の「勇気と信念」は、半世紀近くの時を経て、オーストラリアの人々に、そして世界中の人々に伝えられたのです。
現在、シドニーの小学校では、授業の一環として、映画「サリュート」を子どもたちに見せています。
スタッフ「ピーター・ノーマンを知ってる?」
少年「知ってるよ。オリンピックで(黒人に)協力した人でしょ」
少女「ピーター・ノーマンでしょ?彼はとても偉大だわ」
マット・ノーマンさん≫
「もし伯父が生きていたら『これからは僕が意思を受け継いで、世界の問題に取り組んでいく』と伝えたい。彼のしてきた事を尊敬の念を持って受け継いでいきたい」
ピーターの像がない理由とは!?
議会の謝罪によってピーターの名誉が回復される7年前、銅メダリスト ジョン・カーロスと金メダリスト トミー・スミスの名誉もまた、完全に回復されていました。
アメリカ・カリフォルニア州にある彼らの母校に、あの表彰台の彫像が作られたのです。
2人の勇気と信念を称え、後世に語り継ぐ為に。
その除幕式には、オーストラリアから招かれたピーターも出席していました。
ピーター「アスリートは、オリンピックの表彰台に立つという栄誉のため、一生努力します。なぜか?それは表彰台に立ち、世界中から称賛を受けたいからです。この2人は、1968年、その栄光を自ら手放しました。サンノゼ州立大学のおかげで、今日2人は、その栄光を取り戻しました。その事に、私は感謝をしています」
しかし、実は2位の場所に、ピーター自身の像はありません。
そこには、彼の「強い願い」が込められていました。
ジョン・カーロスさん≫
「ピーターが自分で、作ってほしくないと言ったんだ。あの像を見た世界中の人が是非そこに立って、自分ならどうするかを考えて欲しいと」
台座には、実際にこう刻まれています。
「TAKE A STAND」
この言葉には、2つの意味が込められています。
1つは…
「ここに立ってみて下さい」
そしてもう1つは…
「自分が信じた事のために立ち上がりなさい」
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