林修 初耳「スキャンダル日本史 将軍ゲス不倫!ストーカー!」江戸時代のドロドロ愛憎劇
2017年2月5日(日)放送「林先生が驚く初耳学!」より
「江戸を震撼させた男と女の大スキャンダル!」
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歴史作家・堀口茉純さん
史上最年少(25歳)で江戸文化歴史検定1級取得
様々な書籍を出版、マンガの時代考証も務める江戸のスペシャリスト
今回堀口さんが語るのは、江戸を震撼させた3大スキャンダル事件!
5代将軍・徳川綱吉 禁断のゲス不倫事件
”生類憐れみの令”など様々な政治を行った5代将軍・徳川綱吉は、どんなゲス不倫をしでかしたのでしょうか?
登場人物は4人。
5代将軍「徳川綱吉」
綱吉の正室「鷹司信子」
綱吉の部下「柳沢吉保」
吉保の側室「お染」
綱吉は、部下である柳沢吉保の家へ、「教授」の名目で頻繁に通っていました。
柳沢吉保は、綱吉に寵愛され、大老格にまで出世した徳川の大名。
しかし、本来将軍が、家来の家に行くことすら珍しい時代に、いくら愛する部下と言えど、綱吉が自ら柳沢の屋敷に訪れた回数はなんと、常軌を逸する58回!
いったい何故ここまで、部下の屋敷に通い詰めたのでしょうか?
そこには《ある噂》が…
実は、女癖が悪かった綱吉は、柳沢吉保の妻と不倫関係にあったと言われているのです。
現代に負けず劣らずのゲス不倫!
その結果、お染が妊娠。
表向きは柳沢の子ですが、綱吉の子だとの噂が…
しかしこの事件、ただのスキャンダルでは終わりませんでした。
綱吉の妻・鷹司信子が激怒し、驚きの行動に出ました。
なんと、大奥にある宇治の間で、夫である将軍・綱吉を殺害!
大奥ではこれが、真実として語り継がれてきました。
これはあくまでも噂話で、実際の綱吉の死因は、麻疹にかかり予後が悪くて、食事の最中に喉に物を詰まらせて窒息で亡くなったと言われています。
当時のゴシップ誌には、こういうことがあったんだと書かれているという一つの説です。
実はその後、将軍が殺害されたと噂のある宇治の間は、夜な夜な幽霊が出ると言われ「開かずの間」に…
そのため、江戸城が改築されるたびに、同じ場所に同じように作り変えられた、その事も、このスキャンダラスな噂が真実と語られていた理由です。
江戸の最強悪女 白子屋お熊事件
ドラマや映画では描かれない、江戸の知られざる愛憎劇。
江戸・日本橋界隈で美女として有名だった白子屋の娘「お熊」。
しかし、このお熊はケタ外れの浪費家でした。
実家の材木屋はお金持ちだったにも関わらず、そのお金も使い込んでしまい、思いついたのが、裕福な男との結婚でした。
金持ちの息子を婿養子にもらい、さらなるお金を手に入れました。
しかし、夫のことは好きになれず、お金にしか興味のないお熊の答えは…
「そうだ、死んでもらおう」
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そんなお熊はさっそく、夫の朝ご飯に毒を盛って殺そうと計画。
しかし、夫を指示する使用人にバレて計画は失敗。
さらに、お熊と使用人とのゲス不倫も発覚!
逮捕されてしまいました。
ここまでなら、ただの酷い女の話ですが、ここからが、江戸最恐と言われるお熊の伝説。
当時、不倫は死罪だったため、市中引き回しの上、獄門の刑(斬首)が言い渡されました。
市中引き回しと言えば、縄をかけられ、みすぼらしい姿を見世物にされる刑罰。
しかし、刑罰執行の日、お熊は驚きの行動をとりました。
市中引き回しを、一世一代の晴れ舞台と意気込み、当時最高級品の着物に、水晶の数珠をつけたのです。
日本橋の町を、堂々と引き回されるその美しい姿に、町民たちは拍手喝采したといいます。
江戸中を震撼させたスキャンダルは、現在も歌舞伎の演目として語り継がれています。
ちなみに、お熊を裁いたのは、時代劇でも有名な大岡越前でした。
大岡越前は、江戸で有名な町奉行で、大岡裁きといわれる落語や講談はありますが、そのほとんどが実際に扱ったものではないと言われています。
しかし、このお熊事件は、実際に本人が裁いた数少ない事件だと言われています。
絶世の美女 山本屋おとよストーカー事件
隅田川のほとりにある、桜餅が有名なお茶屋「山本屋」。
そこには、浮世絵にも描かれている看板娘おとよが働いていました。
お店に行列ができるほど人気だったおとよに、ストーカー行為を繰り返していたのが、老中・阿部正弘でした。
老中・阿部正弘は、ペリー来航後、混乱する幕府の中で、自らが主導をとって安政の改革を行った人物。
そんな阿部は、頻繁にお店を訪れては、遠くからずっとおとよを眺めるストーカー行為を繰り返していました。
そしてついに、抑えきれない気持ちが爆発!
おとよを強引に連れ去り、自分の妾にして屋敷に閉じ込めたのです。
驚きの行動に出た阿部でしたが、これに世間が反発し、政治家としての人気が急落!
その後、心労がたたって、阿部は亡くなってしまいました。
お茶屋の娘の爆発的な人気は、計算されたアイドル戦略があったから
実は、江戸時代のお茶屋の娘は、現代で言う「会いに行けるアイドル」的な存在で、お茶屋には行列が出来ました。
アイドル戦略として、美しい姿を世間に知らせる必要があります。
しかし、今のようにテレビも無ければ写真集もありません。
その代わりを果たしたのが浮世絵でした。
当時有名だった浮世絵師「鈴木春信」が、お茶屋の娘を浮世絵に描いてブロマイドのように販売しました。
江戸中でこれが大ヒットし、会いに行けるアイドルが誕生したのです。
それまでの浮世絵は、吉原の花魁やが芸者などを描いていました。
彼女たちに会いたいと思っても、吉原のトップの花魁に会うためには、最低でも3回通わないといけないというような、車1台買うくらいの覚悟が無ければ遊べないという事情がありました。
そんな中で、茶屋娘の浮世絵を描いてブロマイド的に売り出して江戸中で爆発的に大ヒットしたというわけです。
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