迷子になって26年・生みの親と奇跡の再会「奇跡体験!アンビリバボー」
2017年4月27日(木)「奇跡体験!アンビリバボー」より
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今年度、アカデミー賞6部門にノミネートされた話題作「ライオン 25年目のただいま」
これは、実話を基にした映画です
物語の始まりは、今から31年前の1986年。
5歳の少年サルーは、インドのとある貧しい農村で暮らしていました。
家財道具など殆どない小さな古い家に、母のカムラ、二人の兄と妹の、5人暮らしでした。
父親は3年前、家族を捨てて町を出ていきました。
母が建築現場で働き、一家を支えていましたが、貧しい生活でした。
母の仕事は、重い石を頭に乗せ、日暮れまで働く過酷なものでした。
一家の住む家は駅の近くで、少しでも母を助けようと、サルーは度々この駅から、兄のグドゥと列車に乗って、働きに出る事がありました。
サルーは、優しい母、兄たち、可愛い妹、家族が大好きで、貧しくても辛いと思った事はありませんでした。
そんなある日のこと
兄・グドゥの仕事に、サルーは「ついていきたい」と言い出しました。
グドゥは「夜中の仕事だからダメだ」と言いましたが、それでもサルーはついていきました。
そして2人は、最寄りの駅から列車に乗り込み、いつものように、1時間ほど離れた「ベランプール」という駅へと向かいました。
しかしサルーは、ベランプール駅に着くと、ベンチに横になり「眠くて動けない」と言い出しました。
兄・グドゥはしかたなく「俺が一人で行ってくるから、じっとしてな。また戻ってくるから」とサルーに言い残し、仕事へ向かいました。
夜になり、サルーが目を覚ますと、列車は停まっていましたが、駅には誰もいませんでした。
兄・グドゥの姿はどこにもありません。
「一体どこにいったのだろう?」
「もしかしたら、グドゥはこの列車に乗っているのかもしれない」
そう思ったサルーは、停まっていた列車に乗り込みました。
すると、列車はすぐに走り出しました。
サルーは車内を探しましたが、兄の姿はなく、他に乗客さえいませんでした。
探し疲れたサルーは、いつの間にか眠ってしまいました。
兄・グドゥは、サルーが眠っていたはずのベンチに戻ってきましたが、サルーの姿はありません。
「サルー!」と叫ぶ声だけが響いていました。
そのころサルーは……
5歳のサルーは、兄を追いかけ、家の方角へ向かう列車に乗ったつもりでしたが、目を覚ますと、外には見慣れない景色が流れていました。
実は、サルーが乗ったのは「回送列車」。
何らかの理由で、ドアが開いたまま「ベランプール」の駅に停車、そこに運悪く、サルーは乗ってしまったのです。
そのまま12時間以上列車に揺られ、ようやくドアが開いたのは、インド東部の大都市・コルカタにある「ハウラー」という駅。
そこは何と、生まれ故郷から1000km以上も離れていました。
ようやく列車から降りたサルー。
道行く人々に「ガネストレイ 電車 ガネストレイ」と、住んでいた町の地名を言ったつもりでしたが、「ガネストレイ」を知る者はいませんでした。
しかも、言葉が通じません。
家族が使っていたのは、インドの公用語ヒンズー語。
しかし、降り立った都市コルカタの公用語は、ベンガル語だったのです。
コルカタにもヒンズー語を使う人はいますが、その割合は多くはありません。
誰も助けてはくれない
お金もないサルーに出来たのは、残飯などを拾い食いすることだけ。
わずか5歳で、路上生活者になってしまいました。
夜は、駅構内の一角で、子供のホームレスたちのそばで眠りました。
その夜から、夢に見るのは故郷の思い出ばかり。
昔、頭にスイカを乗せて歩いていると、オートバイに引っかけられ転倒し、頭を打ったことがありました。
母に包帯を巻いてもらったことが思い出されます。
サルーがふと目を覚ますと、不審な男たちが子供たちを捕まえていました。
当時インドでは、臓器売買などを目的に、子供の誘拐が相次いでいました。
サルーは本能で「捕まってはならない」と悟り、からくも逃げ切りました。
サルーが警察に保護されたのは、迷子になって2週間が過ぎた頃
しかし警官相手に伝える事が出来たのは「ガネストレイ、電車」だけ。
警官も「ガネストレイ」が地名だと想像はできましたが、聞いたことのない地名、どこにあるのか想像すらできませんでした。
サルーは貧しさゆえに、学校に通った事がありませんでした。
文字の読み書きは出来ず、家の住所はおろか、親のフルネームさえ言えなかったのです。
やむなく警察は、サルーの写真を撮影し、もし捜索願が出ていれば照合し、家族の元へ帰すことができるのではと考えました。
しかし、その希望は無残にも打ち砕かれます。
実は、サルーの母は、何度も警察に行き、相談をしていました。
しかし、1000km以上離れた場所にいるとは、誰一人想像しませんでした。
そのため、家族が探しているという事実が、コルカタの警察にまで伝わる事はなかったのです。
「どこから来たのか分からない少年」
やむなく警察は、サルーを少年拘置センターに送りました。
しかし、そこに収監されていた子どもの中には、罪を犯した少年や、殺人を犯した者までいました。
サルーを待っていたのは、年上からいじめられる地獄の日々でした。
1ヶ月後、児童養護施設に移されました
サルーは、「迷子」から「身寄りのない子供」になりました。
これが、その時の写真。
赤いシャツの子が、サルーです。
そんな彼に、救いの手を差し伸べる一人の女性が現れました。
児童養護施設のオーナー「ミセス・スード」。
ヒンズー語も話せた彼女は、兄とはぐれた経緯などを聞き出し、サルーの顔写真を新聞に載せてくれました。
しかし、何度も新聞に写真を載せましたが、残念ながら何の反応もありませんでした。
インドは、日本の8.7倍もの面積があります。
コルカタのある西ベンガル州だけでも、北海道とほぼ同じくらいの広さがあります。
彼女も「迷子になるとしたらせいぜいこの範囲に違いない」と思っていました。
1000キロ以上離れた母の街まで、情報が伝わる事はなかったのです。
ミセス・スードは、サルーに「新しい家族と一緒に住むこと」を勧めました。
ミセス・スードは、施設の子供達の将来を考え、国内外で里親を探す活動もしていました。
やがて、「サルーを欲しい」という家族が見つかりました
オーストラリアのタスマニア島に住み、工業用機材の販売会社を経営するブライアリー夫妻でした。
ミセス・スードは、「決めるのはあなたよ。新しい両親と暮らすか、それともインドへ残るか」とサルーに言いました。
いじめと、餓死寸前の悪夢が頭をよぎったサルーは、決意せざるを得ませんでした。
彼は、新たな家族と暮らすことにしました。
こうして、兄とはぐれてから1年後、コルカタからタスマニア島へ。
サルーは、母や家族が住むインドから、9500㎞離れた南の島へと旅立ったのです。
養父母は優しい夫婦でした
サルー・ブライアリーさん≫
「(養父母は)親切で、とても温かい夫婦でした。私のために、インドにも興味を示してくれる最高の人たちです」
こうして始まった新たな人生。
ブライリー夫妻は、生活を共にし、サルーに英語を教える一方、急な環境の変化で不安がらないよう、インドの置物や地図を用意してくれたり、近所に住むインド人夫妻と親しくなり、懐かしい故郷の文化に触れる機会を作ってくれたりしました。
サルーが、インド式に手で食べると、養母も見よう見真似で、手で食べます。
養母のスーは、アルコール依存症の父に暴力を奮われる過酷な少女時代を過ごしていました。
身をもって知ったのは、「血の繋がった親子だから幸せとは限らない、大切なのは愛情だということ」。
やがて、貧しい国ほど子供の人口は増え、飢餓などで亡くなる数も多いと知ると、「自分が恵まれない国の子を育てよう」と決意。
同じ考えを持ったジョンと結婚し、サルーは念願の、初めての養子でした。
最初からこの家の子供になるつもりでやってきたサルーは、抵抗もなく「お母さん、お父さん」と呼びました。
しかし、毎晩布団に入り目を閉じると、懐かしい家に戻る日のことを思いました。
サルー・ブライアリーさん≫
「いつでも、故郷のことが頭にありました。『私がいなくなって心配しているんじゃないか?』何をしていても、心の隅には、いつも母を思う気持ちがありました」
言葉も考えも、すっかりオーストラリア人となり、サルーはいつしか、養父母を「本当の両親」として慕うようになっていました。
そして、インドの家族と生き別れてから21年が経った2007年、養父母の家を離れ、オーストラリアの首都キャンベラにある大学に進みました。
経営学の学位をとるためです。
ここで、運命の歯車が動き出します
人並みにキャンパスライフを謳歌し、ガールフレンドも出来ました。
しかし、サルーには悩みがありました。
ずっと胸に閉じ込めていた苦悩、それは「今も自分の帰りを待って悲しんでいるだろう実の家族のこと」でした。
インドの人口は、約12億。
そこから家族4人を探すことは、不可能に近いことです。
しかし、キャンベラの寮には、世界中から留学生が集まっていました。
やがて、インド人学生と親しくなったサルーは、これまでの事情を話しました。
サルーが覚えていたのは「ガネストレイ」という地名ですが、うろ覚えなので確かではありません。
そして、生家の最寄り駅から1時間ほどの、兄とはぐれた「ベランプール駅」だけで、これもうろ覚えなのではっきりしません。
最後に「プール(pur)」と付くのは、《ヒンズー教徒が作った街》という意味。
しかしインドには、似た駅名がたくさんありました。
そこでまずは、「プール」が付く地名をインターネットで調べ始めました。
やはりインドではかなり多く、全国に散らばっていました。
ここからの作業が大変でした。
例えば、「ベランプール」に似た「プラマプール」という駅名があると、今度はそこから、列車で1時間ほどで移動できる駅を見つけ、「ガネストレイ」に似た地名を探す、という地道な作業。
スペルを少し変えて検索しますが、似た地名、駅名さえ見つかりません。
覚え違いをしている事は間違いありませんでした。
正確な名前が解らない以上、もはや探しようがありません。
「景色は鮮明に覚えているのに…」
サルーは、景色は鮮明に覚えていました。
兄とはぐれた「ベランプールの駅」。
自宅近くの駅にあった「大きな陸橋」。
そのそばには、「タンクが乗った給水塔」がありました。
そして、「駅から実家までの道」。
「もし、鳥のように空を飛べたら、インド中を飛び回って探せるのに」
そのとき、サルーは「あること」を思いつきました!
果たして、彼は何を思いついたのでしょうか?
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サルーが思いついたもの、それは「グーグルアース」
グーグルアースは、世界中の上空からの景色を、パソコン上で確認できるソフトです。
そこで「プール」が付く駅を、1つ1つグーグルアースで見ていきました。
しかし、見覚えのある景色は出てきません。
勉強を疎かにして、養父母の期待を裏切ることは出来ません。
それでも、学業の傍ら、毎日何時間も、記憶の中の風景を探し続けました。
そして、無事大学を卒業したサルーは、ある決意を胸に、養父母が待つ家へと戻りました。
サルーは、「父さんの会社で働きたい」と2人に伝えました。
自分の過去に興味が湧いたことで、養父母との絆も、それまで以上に大切に感じたからでした。
こうして、昼は父と共に働き、夜になると、故郷探しに没頭しました。
大切な家族はもう1つありました。
脳裏に浮かぶ「実の母」。
サルーは、これまでの探し方を根本から見直しました
こだわっていた「駅名」に囚われない事にしたのです。
自分が列車から降りたのは、コルカタの「ハウラー駅」で、ここを始点に全ての路線をグーグルアースで辿れば、いつかは「兄とはぐれた駅」に辿り着くはず、と考えたのです。
今思えば、列車に乗っていた時間は「12時間~15時間」だった記憶があります。
さらに当時、インドの列車の速度は「約時速70~80㎞」であったことが分かりました。
これを元に計算すると、移動距離は「約840~1200km」ということになります。
しかし、路線はどれも曲がったり、分岐・合流を繰り返したりしています。
そこで、コルカタを起点に、目安となる半径1000㎞の円を書きました。
中心にあるハウラー駅から外に向かって一駅ずつ、1000kmの線に近づくにつれ、より慎重に調べていきました。
サルーは毎日、線路上、どこまで探したかを記録しました。
しかし一向に、記憶にある風景は見つかりません。
そして1年後には、1000kmの線の外を調べるようになっていました。
毎日、仕事の後に故郷を探しをしていたため、サルーは寝不足で、疲れが溜まっていました。
そんなサルーを心配する養母に、「故郷探しにのめり込んでいる」とは言えませんでした。
自分を心配する養母の優しさを、知れば知るほど、いっそう、生みの母の悲しみを思いました。
こうして、故郷探しを始めて2年がたった2011年
コルカタから始まったグーグルアースでの旅は、インド中央を走る路線に辿りついていました。
そして、今から6年前の2011年3月31日の夜。
いつものように調査をしていると、街の中央に線路が走っている駅があり、「似ているな」と思いました。
駅のマークをクリックすると、「ブルハンプール」。
うろ覚えだった「ベランプール」に発音がそっくりでした。
ここが、兄と別れた駅なのでしょうか?
だとすれば、この近くに、見覚えのある故郷の駅があるはずです。
そして…。
「線路を跨ぐ陸橋」
さらに、線路のすぐ傍に…。
「給水塔」らしき物が。
その駅の名は「カンドワ」。
そっくりでした。
そして、25年前の記憶を頼りに、駅の周辺を調べました。
すると、母が待っていた家。
小さくとも家族みんなで楽しく過ごした、紛れもない、あの家の「長方形の屋根」でした!
後日、「ガネストレイ」という地名は、「ガネッシュ・タライ」という、サルーが住んでいた地域の名前である事が判明しました!
サルー・ブライアリーさん≫
「ついに見つけたのです、私の故郷を」
しかし、離れ離れになって25年、母や家族がまだ住んでいる保証はありません。
今すぐにでも、インドの母親に会いに行きたい
しかしサルーは、それをためらっていました。
自分を引き取って、実の息子のように育ててくれた養父母のことを思うと、なかなか言い出せなかったのです。
しかし、ついにサルーは、すべてを打ち明ける決意をします。
サルーは、「実の母に、無事を伝えに会いに行きたい」という想いを告げました。
養母は「子どもに会いたくない親なんていないわ。お母様にあなたを見てもらいたい。立派になった姿を見せてらっしゃい」 と、快く送り出してくれました。
そして、今から5年前の2012年2月11日
サルーは、26年ぶりにインドの故郷へ向かいました。
サルー・ブライアリーさん≫
「故郷に一歩降り立ったら、勝手に(家に向かって)足が動きだしたんです。家の前には、3人の女性が立っていました」
サルーが26年ぶりに帰ってきた家の前、そこには3人の女性が立っていました。
サルー・ブライアリーさん≫
「1人ずつ、ゆっくり顔を見ました。1人目も違う、2人目も違う。3人目の真ん中の女性…。子どもの頃、私が小さかったから、母は背が高いと思っていましたが、実際は小さかったんです」
「サルー、捜し続けたのよ」
「許してママ」
母がサルーの額を触ると、スイカの傷が残っていました。
実に、26年ぶりの再会でした。
これが、その時の実際の写真。
そこには、紛れもない親子の姿がありました。
サルーがいなくなった後、母は自ら、息子の消息を訪ね歩いたといいます。
それでもわからず、人を雇って行方を探しました。
その費用を稼ぐため、以前より多くの時間、建設現場で働かねばならなかったといいます。
この日、兄の一人と、妹とも再会することが出来ました。
しかし、長兄・グドゥは…。
あの日、鉄道事故で亡くなっていたのです。
弟を探している最中なのか、家族のために駅付近で仕事をしていた時なのかはわかっていません。
その日、息子を2人もなくした母の、悲しみの深さを知りました。
実は兄弟たちが、別の場所へ移り住もうと提案したこともありました。
しかし母は、頑なにこの家を動こうとしなかったといいます。
理由は「サルーが帰ってきたときのため」。
失った時間を取り戻すかのように、親子は全てを語り合いました。
そしてサルーは、インドから養父母にメールを送りました。
「僕の家族はちゃんと存在していました。オーストラリアの僕たち家族と同じように」
25年ぶりに実の親子が再会した翌年
インドのガネッシュ・タライに、一人の女性の姿がありました。
サルーの養母・スーです。
一緒に、息子の実家を訪れたのです。
そして、「産みの親」と「育ての親」が初めて顔を合わせました。
その後サルーは、実の母に新しい家をプレゼントしました。
現在彼は、オーストラリアで生活しながらも、頻繁にインドを訪れ、実の母との絆を深めています。
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