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絶対王者・羽生結弦はいかにして作られたのか?「羽生家の家訓」とは!?

投稿日:2018年2月19日 更新日:

ケガからの復活で、見事なオリンピック2連覇の羽生結弦選手。
”絶対王者”を育てた両親、祖母、叔母らの話をまとめた記事を紹介します。
天才・羽生結弦を育てた「羽生家の家訓」決して表に出ない両親、祖母、叔母らが明かした新事実

天才・羽生結弦を育てた「羽生家の家訓」決して表に出ない両親、祖母、叔母らが明かした新事実 2015.01.30

羽生結弦はなぜ、あれほど心が強いのか。
彼のスケートを見た人が抱く疑問だ。

普段は少年のようにあどけないのに、競技中の眼差しには炎が宿る。
天才スケーターを育んだ両親の実像に、初めて迫る。

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控え目で謙虚な両親

連覇を達成したグランプリファイナル終了後の記者会見で、羽生結弦(20歳)にこんな質問が飛んだ。

「わが子を羽生選手のように育てたいというお母さんが多いのですが、どうしたら羽生選手のように育つと思いますか」

羽生は少し困ったような表情で考えを巡らせてから、こう答えた。

「僕は『僕』です。人間は一人として同じ人はいない、十人十色です。僕にも悪いところはたくさんあります。でも悪いところだけじゃなくて、いいところを見つめていただければ、(子供は)喜んでもっと成長できるんじゃないかと思います」

逆境に立ち向かう強い精神力、誰に対しても礼儀正しい振る舞い 羽生結弦を見た時、世の母親たちが「子供にあんなふうに育ってほしい」と思う気持ちはよくわかる。

ただ、そこでハタと気づくことがある。

羽生の両親とは一体どんな人物なのか?。

その質問に答えられる人は少ない。
なぜなら羽生の両親はこれまで、インタビューに応じたこともなければ、表舞台に登場したことも一度もないからだ。

「結弦の両親が表に出ないのは、頑張っているのは本人であって、親は関係ないという考えからなんです。五輪で金メダルを獲得しても『私たちがしゃしゃり出て話すことはない』と言っていましたね。控え目で多くを語らない、お二人とも、まさに東北人の気質を持った両親です」

羽生家に近い友人はそう説明する。

息子が謙虚なら、親もまた謙虚。
一体、羽生家ではどんな教育が行われ、天才・羽生結弦が育まれたのか。
その秘密を探るべく、本誌は羽生の地元・仙台に飛んだ。

羽生が生まれ育ったのは仙台市泉区。
両親と姉の4人家族で、父は中学校の教頭として勤め、母は専業主婦、4歳上の姉は、羽生のホームリンクだったアイスリンク仙台の職員として働いている。

羽生が生まれ育った県営住宅は、仙台駅から車で20分ほどのところにあった。

「フィギュアは、靴や衣装、リンク代など、ものすごくおカネがかかるスポーツです。家族の協力なしにはできません。羽生家は父親が公務員で貧しくはないけど、カネ持ちというわけでもない。家賃5万円でつつましく暮らしていました。節約のために、つい3年前まで結弦の衣装はお母さんが作っていたんです」(前出の友人)

雪の降る中、羽生家の表札を探したが、見つからない。
近隣住民がこう教えてくれた。

「金メダル獲得後、自宅に取材が殺到したでしょ。だから昨年の10月頃、羽生さんちは仙台市内のマンションに引っ越したのよ」

やむをえず、仙台市内に住む母方の祖父母の自宅を訪ねてみた。

取材で来た旨を告げると、祖母はインターフォン越しに、「東京からせっかく来ていただいて申し訳ないのですが、孫についてお話しすることはできません」と、申し訳なさそうに言う。
だが、少しだけでもとお願いすると、ポツリポツリと答えてくれた。

羽生選手の人間性はご両親をはじめ、周囲の方の教育の賜物だと思います。

いいえ、あの子の両親は当たり前のことをしてきただけです。特別なことは何もしていません。

羽生家には「家訓」のようなものはあるんでしょうか。

ゆづを育てたのは、両親ですから、私たちは話す立場にありません。私たち祖父母がいろいろと話したような記事が出てしまったら、恥ずかしくて生きていけませんよ。

有名になってもご両親をはじめ、皆さん、表に出てきません。それが羽生家の方針ですか?

頑張っているのはゆづ本人ですから。

ご両親の、しっかりした教育あっての羽生選手だと思います。

それはウチの娘ではなく、教員をされているお父さんが立派だったんだと思います。私たちは普通の人間ですから。

「嫌なら辞めればいい」

小さいころの羽生は、野球をやっていた父の影響から、ボール遊びが大好きな少年だった。

端麗な容姿から女の子に間違えられることもあったが、周囲からは明るくわんぱくに見えていた羽生少年。
だが実は、他の子供に比べて、生まれつき大きなハンデを背負っていた。

「喘息」である。

喘息持ちだった羽生は、少し走ると急に咳き込んだり、夜も眠れないほど咳が続く日もあったという。

羽生がスケートと出会ったのは4歳の頃。
スケート教室に通っていた姉の練習についていったのがきっかけだったが、目的は喘息を克服することにあった。

「お母さんは結弦の喘息を心配し、なんとか治してやりたいと考えていた。ホコリを吸い込む可能性の少ない屋内でのスケートは、結弦にピッタリのスポーツでした」(前出の友人)

幼少期から羽生を指導し、現在は神奈川スケートリンクの専属インストラクターを務める都築章一郎氏は、その頃のことを次のように語る。

「元々は喘息を治すことが目的だったようですが、結弦は体幹がしっかりした子で、『才能の片鱗』が見えました。何度転んでも起き上がってきて、当時から芯の強さや、負けず嫌いなところはありましたね。『お姉ちゃんができるなら僕にだってできる』と言って、果敢にジャンプやスピンに挑戦していました。その頃からうまくいけば世界に通用する選手になると思っていました」

スケート靴を初めてはいた瞬間から、光っていた才能。
だが、ここから順風満帆なスケート人生が始まったのかと言えば、そうではない。
そのエピソードを明かすのは、羽生の父親の妹で、現在は保育士を務める叔母である。

「兄はずっと野球が好きで、野球部の顧問も務めていました。だから、本当はゆづに野球をやらせたかったんです。小学校3~4年生の頃、スケートの練習が少し嫌になっていたゆづに、兄はこう言ったそうです。『野球のほうがおカネもかからないし、スケートが嫌なら辞めてもいいんだぞ』と」

喘息の症状が改善に向かっていたこともあったのだろう、父の提案は羽生を悩ませた。
そして、悩んだ末に羽生が自分の意志で出した答えが「スケートを続ける」だった。

「兄の問いかけは、ゆづがもう一度スケートに対する思いを確かめる、いいきっかけになったようです。

それ以来、兄は決してスケートに対しては、口を出しませんでした。ゆづに『もっと頑張れ』、『もっと練習しろ』とは言わず、一歩下がって、『おっ、頑張っているな』と声をかけて、見守るというのが、兄のスタンスでした。

ゆづの運動神経と、あの体型は奥さん譲りでしょう。うちの家系は野球好きですが、運動が得意な家系ではないし、手足も長くないですから(笑)」(叔母)

前出の都築氏は、羽生の両親の教育方針についてこう語る。

「羽生家の場合、あるときは密接で、あるときは突き放すという教育をされていた気がします。子供にやらせるのではなく、子供が関心を持ったことに、可能な限り協力する。子供の『自主性』を尊重するのが、羽生家の教育方針でした」

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スケートだけの人間になるな

そうして続けたスケートで、羽生はますます才能を開花させていく。小学4年生の時にノービス(ジュニアの下のクラス)の全国大会で初優勝。中学1年では、ノービス選手にもかかわらず、全日本ジュニア選手権で3位に輝いた。

羽生が中学、高校と進学するにつれ、両親は「自主性」を重んじる一方で、スケートだけの人間にならないよう、口を酸っぱくして言い聞かせてきたという。
羽生が通っていた東北高校の五十嵐一彌校長が明かす。

「羽生君は勉強もスケートもきちんと両立していました。やはり親御さんの教えがあったからだと思います。お父さんは『フィギュアだけでなく、勉強もしなければダメだ』と羽生君に常日頃言っていたようで、遠征先にも教科書や参考書を持ち込んで勉強していました。中学のころから成績もよくて、特に理数系が得意でした。お父さんが数学の先生という影響があるのかもしれませんね」

’10年にはシニアデビューを果たし、’11年、四大陸選手権で銀メダルを獲得。
史上最年少のメダリストとなった羽生は、高校3年時の’12年5月、さらなるレベルアップを目指して海を渡る。

バンクーバー五輪金メダリストのキム・ヨナの指導者だったブライアン・オーサーに師事するため、地元仙台を離れ、カナダのトロントに母と二人で移住したのだ。
父と姉を地元仙台に残し、異国の地で、母と羽生の二人の生活が始まった。

「最初は言葉の壁や生活環境に馴染めず、苦労したみたいです。カナダは肉料理が多いのですが、結弦は食が細いので、外食で胃がもたれることもあった。そこで、お母さんは家で消化の良い鍋を食べさせるなど、結弦の健康管理には相当気を遣ったみたいです」(前出の友人)

献身的な母の支えもあり、なんとかカナダでの生活が軌道に乗ると、羽生はオーサーの指導をどんどん吸収し、メキメキと腕を上げていった。

羽生を長く取材するスポーツライターは、オーサーの指導方法が、羽生の両親の考え方とも合っていたという。

「オーサーは選手とのコミュニケーションを非常に重要視するコーチです。『この技術はこうしないといけない』と決めつけるコーチもいますが、オーサーはまったく逆。言葉を尽くして選手と話して、その選手にあった方法を一緒に探してくれるんです」

リンクの上では、常に射るような眼光で、メンタルの強さを感じさせる羽生。
だが、幼いころから羽生を知るスケート仲間は、羽生の中には今も「二面性」があると言う。

「強いゆづと弱いゆづ、その二つです。あれほどの選手になっても、弱いゆづは完全になくなったわけではない いや、その弱さがあるからこその、ゆづなんです」

象徴的な出来事が、あの3・11、東日本大震災の日にあった。
地震が起きた瞬間、羽生はアイスリンク仙台で練習中だった。

突然すさまじい轟音と共に大きな揺れに襲われると、羽生は先輩スケーターにしがみつき、「やだやだやだ」と叫んだ。
先輩が「大丈夫、大丈夫だから」と言っても、ただ泣いて震えていた。

リンクの氷は割れ、建物も半壊状態。
家族は全員無事だったものの、電気、ガス、水道などのライフラインが寸断され、自宅にも戻れず、家族で4日間、避難所生活を強いられた。

「こんな状況でスケートをやっていていいのか」

恐怖が去った後、羽生を支配したのはそんな感情だった。
悩む羽生に前を向かせたのは、母の後ろ姿だったという。

「お母さんはまさに駆けずり回って、結弦が練習を再開できるよう、スケート連盟やコーチにも片っ端から頭を下げて回っていた。こんな時だからこそ、結弦は滑らなければならない。ここでへこたれてはならない。母のその思いが結弦には伝わったのでしょう。『僕は自分のためだけに滑ってるんじゃない』と、彼が口にし始めたのはこの頃からです」(前出の友人)

グランプリシリーズ中国杯で、激突事故の直後に強行出場をしたことが、日本国内で賛否両論を巻き起こした。
だが、前出のスケート仲間は、「あそこで出場しなければ、それはゆづじゃない」と断言する。

「批判する人たちは『アスリートとしてどうだったのか』と言いますが、ゆづは単なるアスリートじゃないと、僕は思います。もう少しロマンチックな、わかりやすく言えば『少女漫画に出て来る主人公』みたいな奴なんです。

使命感という言葉が適当かどうかはわからないけど、リンクに立てる以上は、あそこで棄権するという選択肢はゆづにはありえなかったはずです」

もう一人の支えは「整体師」

あの時、流血する羽生に寄り添い、肩を抱きかかえていた初老の人物を、覚えている人も多いだろう。
個人トレーナーで整体師の菊地晃氏だ。

羽生にとって菊地氏は「精神安定剤」とも言われ、喘息の治療にも関わってきたとされるが、菊地氏は気功術のようなものを使うため、一部週刊誌で「怪しげな人物」と取り上げられたこともある。

「かつて横綱・貴乃花がそうだったように、スポーツ選手は整体師や占い師に心酔しやすい。菊地氏は『チャクラの仙人』などと呼ばれ、ファンの間でも胡散臭いと思われているようですが、羽生本人はもちろん、羽生の両親からも絶大な信頼を得ています」(前出のスポーツライター)

仙台市内にある菊地氏の接骨院を訪ねると、取材は拒否されたが、施術を受けながら少し話を聞くことができた。

「僕が羽生君の精神的な支えになっている? そんなことはありません。僕はただの整体師です。むしろ羽生君に感謝していますよ。未知の世界に連れて行ってもらえたわけだから。

本人も立派ですが、やはりご両親が立派な方です。いちばん立派なのは、感謝の気持ちを忘れないこと。金メダルを取れば、本人も親も天狗になってもおかしくありません。ただ羽生家の場合は、かれこれ10年以上の付き合いになりますが、出会った頃と何も変わらない。

感謝の姿勢は、ご両親が羽生君に言葉で教えたわけではないと思います。両親の背中を見て、自然と身についたのでしょう」

周囲が菊地氏のことをどう言おうが、信頼関係は揺るがない。自分たちの目と感覚を信じて、今もリンクサイドに立ってもらう。それもまた、羽生家のブレない姿勢である。

様々な試練を経て、現在の羽生結弦がある。
決して驕らず、でも信念は譲らない。
そんな羽生をつくったのは、決して表舞台に出てくることのない、この両親の教えだったことは間違いない。
「週刊現代」2015年1月31日号より

[出典:天才・羽生結弦を育てた「羽生家の家訓」決して表に出ない両親、祖母、叔母らが明かした新事実(週刊現代)現代ビジネス(講談社 > http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41840 ]

東北人特有の我慢強さ、記事を読みながらそう感じました。
私は東北ではありませんが、”裏日本”と言われる日本海沿いの雪国で生まれ育ちました。
羽生家の皆さんの謙虚な姿勢は、厳しい冬をひたすら我慢して春を待ち望む東北人の気質なのかなと思います。
まさに、ケガが完治しているわけではないのに、痛み止めを服用しながら「使命感」のようにリンクに立った羽生選手。
彼を育てたのは両親だけでなく、地域の人たち、また東北の厳しい自然だったのでしょうね。

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