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高校野球甲子園大会でもう少しで完全試合だった男・新谷博

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100回大会の今年の高校野球甲子園大会は、金足農業高校の大躍進に感動しました。
そんな甲子園大会で今までで最も完全試合に近づいた選手がいました。

これまで誰も達成していない完全試合に最も近づいた男 新谷博の伝説

甲子園レジェンドインタビュー 第5回 2018.08.22

2018年の第100回全国高校野球選手権大会は、大阪桐蔭の優勝、史上初の2度めの春夏連覇という結果となったが、この100回、104年にわたる夏の甲子園の歴史の中で、今回も、完全試合を達成した投手は出なかった。ノーヒットノーランは、戦前は、海草中(和歌山県)の島清一が準決勝、決勝連続で、戦後は、松坂大輔(横浜)が決勝で達成したほか、22人(23回)が記録しているが、1人の走者の出さない完全試合は達成した投手は誰もいない。今から36年前、そんな大記録に、9回2死、パーフェクト達成まであと一人というところまで肉薄した投手がいた。
(※選抜では、1978年に、前橋の松本稔が対比叡山戦で、1994年には、金沢の中野真博が対江の川〈現・石見智翠館〉で達成している)

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完全試合をやれば、2勝分にしてくれるわけじゃない

「何にも知らない田舎者でしたよ。甲子園に出るっていうことのすごさもぜんぜんわかってませんでした。だから、あんなことができたのかもしれません」

1982年、第64回夏の甲子園大会。
佐賀商のエースとして出場した新谷博さんは自嘲気味に言う。

確かに、それまでの佐賀県代表は、甲子園で結果を残すことはできずにいた。
のちに、佐賀商(1994年)と佐賀北(2007年)が全国制覇を成し遂げるが、1970年代までは初戦突破も難しい弱小県だったのだ。

余談だが、佐賀商の先輩には、プロ野球で戦前最後のノーヒットノーランを達成した石丸進一がいる。
プロ野球選手で唯一特攻戦死している。
特攻出撃前に滑走路で同僚とキャッチボールをして、そのグラブを、報道部員だった作家・山岡荘八に放り、「これで思い残すことはない。さようなら」と言い残して、機上の人となったという。

「当時、監督が、『甲子園にはコールドがないから、ぶざまに負けないことだけを考えていた。勝つことより恥をかかないことを考えて甲子園に行っていた。監督になって初めて勝とうと思って甲子園に行ったのが、おまえたちの代だった』と言ってましたからね」

そんな佐賀商が抽選で引き当てた初戦の相手が、青森県代表の木造高校だった。
当時、関東から西の高校が、初戦の相手に東北代表を引き当てれば、大喜びしてた時代。
しかも、初出場である。

「『よし、勝った!」と思いました。県予選も自責点ゼロで来ていたし、打たれるかもという不安は一切なく、相手を飲んでかかってましたね」

金属バットが導入されてまだ9年めのこの大会。
優勝する池田が、筋トレでパワーアップして打ちまくる野球で甲子園に革命を起こすまでは、プロに進むような好投手と対戦すれば、点を取るのは至難の技だったのだ。

「まだ、投手有利な時代でしたね。事前に対戦相手の情報を集めるなんてこともまだなくて、ビデオもまだ普及していないから、対戦する投手がどんな球を投げるかも、試合になってみないとわからなかったですから」

そして、8月8日の第一試合、佐賀商対木造の一回戦がプレイボールとなった。
初回に捕手・田中孝尚の3ランで先行した佐賀商が5回までに7点をリードする。
一方の木造は、6回を終えても1人のランナーも出すことができない。

「打たれていないのはずっとわかっていました。だって、パーフェクトで3人ずつ抑えていけば、1回から、先頭バッターが、1番、4番、7番の繰り返しですからね。7回にはまた1番打者から始まるんですよ」

記録のかかった展開に緊張することはなかったのだろうか。

「ぜんぜん緊張しませんでしたね。自分が、パーフェクトやノーヒットノーランに対して価値を置いてなかったからでしょうね。チームにとって大事なのは勝つこと。投手にとって大事なのは相手をゼロに抑えることです。その抑え方はどうでもいいんです。たくさん三振をとったり、完全試合をやれば、2勝分にしてくれるわけじゃない。
野球は、いかに相手よりも多くホームを踏むかを競うゲームですから、いくらヒットを打たれようが、ランナーを出そうが、ホームを踏ませなければいいんです」

回を追うごとに、球場はヒートアップして行ったが、本人はまったく蚊帳の外にいたようだ。

「6回の途中から球場がざわめきだしたんですよ。パーフェクトをやっているのはわかってましたが、すごいことをやっているという感覚がないので、『この人たちは何を騒いでいるんだろう』と不思議だったんです。
それで、『ああ、次の試合に出る優勝候補の池田が球場入りしたから騒いでいるのか』とトンチンカンなことを考えてました」

そして、試合は9回を迎える。

コントロールがいいから、死球が多かった

「9回のマウンドに上がるとき、このままでは終わらないだろうという感覚があったんです。それまでの野球経験で、なんの波乱もなく試合がすっと終わったことなんてなかったですから。
先頭バッターをスリーボールにしてしまい、4球目、三遊間に強烈なライナーを打たれるんですが、ショートがファインプレーをして1アウト。
そのとき、何かあるだろうと感じたのは、これだったのかと思ったんですが」

次の打者は簡単に三振にとり、パーフェクトのまま、9回2死。
27人めのバッターを迎える。ここで、木造は、1年生の世永幸仁を代打に送る。

外角のストレートで1ストライク、2球め、3球めは、内角、外角にきわどいコースをつくが、ボールと判定され、運命の4球め。
この試合、新谷さんが投げた97球めだった。

内角へのボールはバッターの右腕に当たってしまう。
史上初の記録は達成直前でついえた。
最後のバッター、完全試合を狙ってはいなかったのだろうか。

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「いや、僕自身はゼロに抑えることだけを考えて、いつも通り、サイン通りに投げていただけですよ。
当時の監督はおっかなくて逆らえなかった。その監督が全幅の信頼を置いていたのがキャッチャー。監督に、『このキャッチャーのサインには首を振るな、キャッチャーの言うた通りに投げろ」と言われていたんです。あの試合も、サインが出たらうなずいて投げるの繰り返しでした。ヒットを避けるための配球、外、内、外、内の、4球めの内が当たってしまっただけです。
僕は、フォアボールよりデッドボールが多かったんです。コントロールがいいから、1人のバッターに大して4球もボールになることはあまりなかった。逆にコントロールに自信があるから内角を攻めて、逸れた球が当たることがあったんです。
あの場面、もしパーフェクトを狙っていたら、内角に投げる必要はなかったんです。あの場面で出てきた1年生の代打が相手なら、外角のストレートと変化球の組み合わせて打ち取れたはずです」

完全試合がなくなり、球場全体がため息に包まれるなか、当ててしまった当人は、何を思っていたのだろうか。

「当てた瞬間、キャッチャーが両手でホームベースをたたいて悔しがってるんですよ。「何をそんなに悔しがってんだよ」とどん引きでした。というのも、当てたバッターに帽子をとって謝ったあと、次のバッターに意識が行ってたんです。次の1番バッターは左で、その日いちばん振れていたし、『面倒くせえヤツに回ったな』と。だから、完全試合がなくなったことより、早く次のバッターに集中して、なんとかゼロに抑えたかったんです。そしたら、あっさり初球をセカンドゴロを打ってくれました」

唯一無二となるはずだった大記録は逃したが、ノーヒットノーランは達成した。
ところが、当時の映像を見ても、新谷さんは最後まで淡々と投げているように見える。
なぜあれほど冷静でいられたのだろうか。

「絶対的な自信を持っていたことが大きいでしょうね。相手バッターの振りがいいなとか、手強いなというような不安が少しでもあれば、あんなピッチングはできません。自分は覚えていないのですが、控えのキャッチャーが言うには、1回の守備が終わってベンチに戻ったとき、『(相手の)3番があんな振りなら、おれの球が打てるわけない』と言ったらしいんです。くそ生意気なピッチャーですよね」

思い通りに投げたら、あとはバッター次第

その後、佐賀商は、2回戦で東農大二高(群馬県代表)に5対1で勝利。
3回戦で津久見(大分県代表)に延長戦の末、2対3で敗れるが、投手・新谷はプロからも高い評価を受け、その年のドラフト会議でヤクルトから2位指名を受ける。

しかし、高校野球の指導者を目指していた新谷さんは、駒沢大学に進学。
社会人の日本生命を経て、1991年に西武に入団し、1994年には最優秀防御率のタイトルを獲得。
2001年に引退後は、日本ハムのコーチ、女子硬式野球日本代表の投手コーチ、監督を務め、IBAF女子ワールドカップ3連覇に貢献している。

現在は、プロ野球解説者のほか、尚美学園大学女子硬式野球部監督を務める。
甲子園でのピッチングを振り返ったとき、大記録に肉薄できた前提として、投手の生命線であるコントロールの良さがあったからだと、新谷さんは言う。

「投手がいちばん怖いのは、ストライクが入らないことです。ストライクをとれない投手は後手をふむ。スリーボールになると、フォアボールが怖いから、ツーボールが怖くなる。そうすると初球がボールになることが怖くなるから、ピッチングがバッターとの対戦ではなくなるんです。
いくら160キロの球速があっても、思うところに投げられなければ、バッターとの対戦ではなく、ストライクゾーンとの対戦になってしまう。バッターとの対戦は、バッターがこっちを狙っているから、あっちに投げようという駆け引きになります。バッターとの駆け引きは、自分が思うところに投げられなきゃ始まらないんです。
自分の思うところに投げられれば、まず打たれることはありません。これまで何万球と試合で投げてきて、狙ったところに完璧に投げた球をホームランやヒットされたという記憶はほぼないですね」

また、約40年にわたって、投手、投手コーチとして生きてきた新谷さんには、マウンドの上で得た独特の投手論がある。

「僕の感覚では、野球というゲームはバッター次第のゲームだと思ってます。ピッチャーは、ボールが指から離れたら、あとは何もできません。打つか打たないかはバッターが決めるているんです。
ピッチャーにとって、18.44m先のできごとなんてどうすることもできない。自分の思い通りに投げたら、あとは祈るだけです。『お願い。打たないで』と。
ピッチャーの仕事は、自分の狙ったところに狙った球種を投げることであって、バッターがヒットにするか、打ち損じるか、空振りするか、見逃すかという結果には責任はとれません。それを、打たれたのは自分の責任とか、抑えたのは自分のおかげだとか思うから、おかしくなって、自分のいい球が投げられなくなる。
ホームランを打たれたら、それはバッターがいい仕事をしたということ。打たれた、抑えたに一喜一憂するのではなく、自分が思い描いた投球がするというのがピッチャーの仕事なんです。
自分ではどうにもできないことに一喜一憂していたら、こんな仕事続けられませんよ」

「思い通りに投げたら、あとはバッター次第」という理屈には、大舞台のマウンドという修羅場を何度もくぐり抜けてきた迫力を感じる。
あの「あわや大記録」というシーンについて聞いても、まるで他人事を話しているように感じるのは、この独特の投手論を持つゆえなのかもしれない。

100の大会を重ねても達成されなかったパーフェクトゲーム。
達成するとしたら、一風変わった投手かもしれない。

[出典:これまで誰も達成していない完全試合に最も近づいた男 新谷博の伝説(現代ビジネス)現代ビジネス(講談社 > https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57137 ]

いつか甲子園大会で、完全試合が見られる日が来ると良いなと思います。

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