絵画に描かれた美女の人生 2018年9月22日 世界一受けたい授業
2018年9月22日放送の「世界一受けたい授業」より
Sponsered Link
p>
19世紀「プロセルピナ」
絵に込められた意味を知ると、絵を見るのが何倍も楽しくなります。
19世紀に描かれた美女の絵。
モデルはイギリス人のジェイン。
彼女は美しいだけでなく、とても頭が良い女性でした。
この絵を描いたのは、ジェインに一目ぼれをした画家ロセッティ。
しかしジェインは、資産家のウィリアム・モリスと結婚。
ロセッティは、フラれてもなおジェインに思いを寄せてこの絵を描き上げます。
この絵のテーマは「死の世界へ誘拐された女神」
気品あふれる美しさと、強い目力が印象的です。
今回は、絵に描かれた美女の波乱万丈な人生を紹介。
教えてくれるのは、「怖い絵」シリーズや「美貌のひと」の著者、美術評論家の中野京子先生。
”絵画に描かれた美女の人生”
デボンシャー公爵夫人ジョージアナ
18世紀イギリス貴族を描いた作品。
一度盗難に遭いましたが、犯人がこの美貌に惹かれ、どこに行くにも肌身離さず持っていました。
この女性は、ある有名な女性の祖先です。
それは故ダイアナ妃。
彼女の名前は、デボンシャー公爵夫人ジョージアナです。
彼女の弟の直系の子孫がダイアナ妃になります。
彼女の人生はダイアナ妃と似ていました。
美しい人ですから社交界の華として愛されましたが、唯一人愛してくれないのが彼女の夫で、夫だけが無関心でした。
フランス王アンリ2世の愛人ディアーヌ
この絵のモデルは、元祖美魔女とも言える女性。
描かれた当時は既に50代後半でした。
モデルになったと言われているのは、16世紀フランスの王様、アンリ2世の愛人ディアーヌ。
アンリが王になった当時は28歳で、ディアーヌは20歳も年上の48歳でした。
20歳年上の愛人にアンリはメロメロ。
美の秘訣は、毎朝の冷水浴とプロポーション維持のための乗馬でした。
正妻の王妃カトリーヌは、アンリと同い年で、お世辞にも美人とは言えませんでした。
目の前で愛人といちゃいちゃする夫を許せないカトリーヌは、占い師に夫の不幸を尋ねました。
「ご安心ください。目を槍で突かれるという悲劇が、王アンリ2世様を襲うでしょう」
この占い師こそ、あの有名なノストラダムスでした。
ある日アンリは、宴の余興で馬に乗って槍で戦う試合に出場しました。
その際、相手の槍が兜を突き抜け目を直撃。
アンリは、数日間地獄の苦しみが続いた後、息絶えたのです。
その後、ディアーヌは城から追放され、66歳で亡くなりました。
その後の研究で、中毒死だったことが判明します。
永遠の美を求めて飲んでいた薬に含まれていた水銀が原因でした。
この絵のテーマは、「月と狩りの女神ディアナ」。
ディアナはフランス語でディアーヌ。
月は自ら発光する事が出来ず、太陽の光を浴びて反射します。
王アンリが亡くなると、ディアーヌの輝きもなくなってしまいました。
「忘れえぬ女(ひと)」
この絵は、19世紀ロシアで描かれた馬車に乗った美女の絵「忘れえぬ女(ひと)」
その神秘的な表情から「北方のモナリザ」と呼ばれています。
この絵のモデルは実在の人物ではなく、ロシアの文豪トルストイが書いた小説「アンナ・カレーニナ」の主人公アンナ。
アンナは、夫と子どもがいながら、青年と情熱的な恋に落ちて駆け落ち。
しかし、その関係は次第にすれ違い、アンナは汽車に飛び込みました。
この絵は、絵の裏にどんな物語があるのだろうと、見た人の想像をかきたてる絵です。
Sponsered Link
p>
16世紀ローマの貴族の娘・ベアトリーチェ
その美しさと人生がイタリアで伝説となった少女の絵。
モデルは、16世紀ローマの貴族の娘・ベアトリーチェと言われています。
これは、処刑場に行く前日に描かれたものです。
彼女の罪状は殺人、しかも殺したのは、実の父親でした。
ベアトリーチェの父はお金持ちでしたが、ローマでは有名な極悪人。
貴族なのに盗みを働き、不倫の罪で3度も監獄へ。
家族への暴力は日常茶飯事。
さらに、娘・ベアトリーチェの美しさを独り占めして、結婚させないよう部屋に閉じ込めて虐待していたのです。
ある日、父が階段から転落して死亡。
不審に思った役人が召使を拷問すると「ご家族に殺せと頼まれたんです」。
家族は全員逮捕され、死刑が確定。
ローマ中が家族に同情して許しを求めましたが、幼い弟を除く全員が処刑されました。
フェルメールの有名な「真珠の耳飾りの少女」は、この一連のストーリーに感化されたと言われています。
死に装束にターバン。
このターバンは、当時斬首の際に斧が髪で滑らないようにするためです。
前日に画家が描き、すべての人にさよさらと言うかのように振り返っています。
フアッションデザイナーのココ・シャネル
20世紀に活躍したフアッションデザイナーのココ・シャネル。
有名なファッションブランド・シャネルの創業者です。
この絵を描いたのは、シャネルと同じく20世紀初頭のフランスで活躍した画家のマリー・ローランサン。
日本を代表する女性画家・いわさきちひろさんは、ローランサンの絵に強く影響を受けたと言われています。
20世紀初頭のフランスでは、ローランサンに肖像画を描いてもらえることが名誉でした。
シャネルは、ローランサンから送られてきた絵を見て一言「似てない」と言い放ち、絵を送り返しました。
ローランサンは大激怒し、「シャネルはしょせん田舎の貧乏娘だから!」と。
フランスの田舎町、貧しい家で生まれたシャネル。
11歳の時に母親が亡くなると、父はシャネルを施設に預けました。
18歳になったシャネルは昼は洋裁店、夜はバーで働きました。
「田舎で貧しさに耐える人生は嫌! 独立して自由に生きたい!」
シャネルは貴族の愛人になり、パリ郊外の豪邸で上流階級の生活を始めました。
そこで見たのは、きつそうで重そうなドレスに派手な帽子を被った女性たち。
「あんな女たちと一緒にされたくない!」
シャネルが選んだ格好は、男性のようなズボンとシャツ、そしてシンプルな帽子でした。
かなり目立ちましたがとても似合っていました。
特に人気だったのが帽子。
自信を持ったシャネルは、26歳の時にパリで帽子作りを始めました。
これが世界のシャネルの原点になったのです。
お店はたちまち大繁盛、服のデザインも開始しました。
雑誌では「シャネルを一着も持っていない女性は、取り返しがつかないほど流行遅れ!」と絶賛。
シャネルは、他のデザイナーにコピーされることを誇りに思い、特にブラックドレスは世界中で話題になり、次々とシャネル風のブラックドレスが登場。
他にも、チェーンをつけて持ちやすくしたシャネルバッグや、動きやすいシャネルスーツは、女性の社会進出を後押ししました。
女性の自立、その考えが実は、絵を送り返した理由なのです。
シャネルの戦略として、洗練・強い・自立というイメージがありました。
そのイメージを大切にするために、ローランサンが描いた、か弱く虚ろな目は「これがシャネルなんて冗談じゃない!」と思ったのでしょう。
1971年、ココ・シャネルは87歳で亡くなりました。
Sponsered Link
p>