「桶狭間の戦い」織田軍3000人VS今川軍45000人 信長はなぜ勝てた?「林修の今でしょ講座」
2017年2月7日放送の「林修の今でしょ講座 最新の知識が手に入る3時間SP」より
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今年の大河ドラマの主人公、女城主・井伊直虎。
実は男性ではないかという説が飛び出し、今研究者たちの間で論争が巻き起こっています。
そこで今回は緊急SP。
最新研究で、歴史ドラマの定説を疑う!
歴史ドラマが大好きな林先生が感じていた三大歴史事件の矛盾を徹底追及!
「桜田門外の変」「桶狭間の戦い」「本能寺の変」
東大歴史学者の本郷和人先生と共に徹底捜査すると、私たちが知っているドラマとは違う新事実が次々と明らかに!
明智光秀の「敵は本能寺にあり」の敵は織田信長ではなく、徳川家康だった!?
「敵は本能寺にあり」と言っても、「敵は信長」とは言ってないんですよね(林先生)
江戸幕府NO.2井伊直弼暗殺「桜田門外の変」。
実は井伊直弼は、刀で斬られていなかった!?
歴史の大事件を新証拠を元に、林先生と本郷先生が導いた新説!!
林修のここがおかしい!3大歴史事件
1「本能寺の変」
2「桜田門外の変」
3「桶狭間の戦い」
「桶狭間の戦い」織田軍3000人VS今川軍45000人 信長はなぜ勝てた?
【桶狭間の戦いの定説】
1560年、織田信長は今川義元と桶狭間で戦い、信長は少数の兵で大軍を撃破したと伝えられています。
この戦いにより、信長は一躍「時の人」となり、戦国時代は大きな転機を迎えました。
【信長公記(しんちょうこうき)】…織田信長の家臣が信長について詳しく書き残した伝記を元に現代まで伝えられてきました。
一般的な今川義元のイメージは、貴族化したような武将で弱いイメージ。
しかし、今川義元は、現在の静岡県一帯の3国を統治する有力な大名でした。
なので、実際は優秀な武将で兵隊も強かった…。
ならば、そんな有能な今川義元を相手に、当時まだ小物だった信長が、たった3000人の兵で勝つことが出来たのでしょうか?
林先生の推理は…
歴史は勝者が好きなように書ける。
ならば、信長伝説を作りあげるために、信長公記の兵士の数は書き換えられているのでは!?
本郷先生曰く、信長公記は、信長の歴史を忠実に描いた伝記として歴史研究家の中でも評価が高いとのこと。
しかし、桶狭間の戦いについて、実際には他の資料から1560年の戦いだと確定しているところ、信長公記には1552年と書いています。
そういう意味では、3000VS45000の表記は「眉唾」かも知れないと本郷先生は言います。
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ポイントは石高
兵隊の数は石高に比例しています。
石高とは「お米の量」。
お米の量が多いということは、作る人が多いということ。
つまり、石高が多いほど人が多い。
当時、戦に参加していたほとんどは農民だと言われています。
ということは、石高が多いほど戦う兵士が多い。
今川の領地は確かに広いのですが、山ばっかりでした。
平野が非常に少ない…。
戦国時代の今川義元の頃にどれだけお米が穫れたかはわかりません。
もう少し後の、豊臣秀吉の時代に検地をやっています。
それによると、今川義元の領地3国合わせて、だいたい70万石くらいです。
関ヶ原の戦いの頃、40万石で兵士が1万人でした。
なので、70万石で45000人の兵は不可能だと推測できます。
そう考えると、桶狭間の戦いで今川軍の兵力は、15000人程度ではなかったのかと疑うことができます。
信長公記に書かれている数の3分の1です。
では、信長軍3000人は、本当だったのでしょうか?
尾張の国の石高は?
尾張の国は、面積で言えば伊豆半島と変わらないくらい。
伊豆半島は山が多いため7万石でしたが、尾張の国は平地のため57万石でした。
そこを支配しつつあった信長の軍が、3000人のわけがないと…
今川義元70万石に匹敵するぐらいの石高が信長にはあったと、本郷先生は言います。
仮に50万石だったとしても、1万人を超える兵力はあったのです。
尾張には、港町として栄えた「津島」と「熱田」があり、財源は豊富にありました。
お金が豊富にあったので、傭兵を雇うことも十分に可能だと言えます。
そうすると、15000人くらいは兵力があったのではないかと考えられます。
15000人VS15000人で勝ったのでは、「信長伝説」にあまりならないので、あえて大幅に脚色したのではないかと林先生は推理します。
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