「桜田門外の変」の新事実解明!「林修の今でしょ講座」
2017年2月7日放送の「林修の今でしょ講座 最新の知識が手に入る3時間SP」より
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今年の大河ドラマの主人公、女城主・井伊直虎。
実は男性ではないかという説が飛び出し、今研究者たちの間で論争が巻き起こっています。
そこで今回は緊急SP。
最新研究で、歴史ドラマの定説を疑う!
歴史ドラマが大好きな林先生が感じていた三大歴史事件の矛盾を徹底追及!
「桜田門外の変」「桶狭間の戦い」「本能寺の変」
東大歴史学者の本郷和人先生と共に徹底捜査すると、私たちが知っているドラマとは違う新事実が次々と明らかに!
明智光秀の「敵は本能寺にあり」の敵は織田信長ではなく、徳川家康だった!?
「敵は本能寺にあり」と言っても、「敵は信長」とは言ってないんですよね(林先生)
江戸幕府NO.2井伊直弼暗殺「桜田門外の変」。
実は井伊直弼は、刀で斬られていなかった!?
歴史の大事件を新証拠を元に、林先生と本郷先生が導いた新説!!
林修のここがおかしい!3大歴史事件
1「本能寺の変」
2「桜田門外の変」
3「桶狭間の戦い」
「桜田門外の変」わずか18人で厳重警備の井伊直弼をなぜ殺せた?
【桜田門外の変の定説】
事件が起こったのは、幕末の1860年。
江戸幕府のNO.2である、大老・井伊直弼が、大名行列にて江戸城へ向かう途中、護衛60人に対し、浪士18人が待ち構え、鉄砲の合図で一斉に斬りかかり、わずか数分で暗殺されるという大事件。
これによって倒幕の動きが激化し、江戸幕府が終わるきっかけになりました。
【疑問①】浪士たちは、なぜ現住警備の大名行列に近づけた?
【疑問②】60人もの護衛を、なぜ簡単に突破できた?
【疑問③】剣豪と名高い井伊直弼を、なぜ簡単に殺せた?
浪士たちは、なぜ厳重警備の大名行列に近づけた?
【大老とは?】
江戸幕府の政治を行っているのは老中、現在で言う内閣。
筆頭老中が現在の総理大臣。
5人くらいいる老中が合議で決めたりします。
臨時に老中の上に置かれた最高職が大老。
重要な政策の決定に関与しました。
言うなれば、総理大臣の上です。
普通考えたら、総理大臣より偉い人を襲撃して殺害するなんてもってのほかです。
【安政の大獄(1858~1859)】
外国と不平等条約を結んだ井伊直弼は、反対する者を次々に粛清し、恨みを買っていました。
【大名行列の実際は!?】
ドラマでは、大名行列の際にはみんな土下座しています。
簡単に近づけないイメージがあります。
しかし、実際は、割と簡単に大名行列に近づけたと本郷先生は言います。
本郷先生が用意した証拠の品は「安政武鑑」。
安政とは時代のこと。
武鑑とは、江戸幕府役人や大名の名前や家紋などを記した本で、ガイドブックのようなもの。
大名行列の際、民衆は、武鑑(ガイドブック)の家紋を見ながら「あの大名の名前は〇〇だな」と言いながら見物していたのです。
本郷先生曰く、幕末の大名行列は土下座をして迎えるものではなく、現代の優勝パレードのようなものでした。
大名行列をする方も、堂々とした姿を見せながらゆっくり歩きました。
長くて立派な方が良いので、井伊直弼は60人もの人を従えて大名行列をしました。
18人の浪士が、見物客に紛れて大名行列に近づくことは充分可能だと考えられます。
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60人もの護衛を、なぜ簡単に突破できた?
1860年3月3日、この日は大雪が降っていました。
大雪のため、護衛は刀に「雪覆い」をしていました。
柄が濡れるのを嫌うため、油紙で包んで布で覆って紐で結んでいました。
そのため、刀はとても抜きにくい状態でした。
大名行列は見た目が大事なので、形を重要視して、全員が「雪覆い」を揃えていたと思われます。
井伊直弼の紀尾井町の屋敷から桜田門までは、約600mと近いです。
そのため、誰かがそこで見張っていたら見えるのです。
しかし、雪が降っていたため、見えなかったのかもしれません。
また、温度が下がって雪が降ると、音が聞こえにくいということもあります。
計画段階では、この日に雪が降るとはわからなかったと思いますが、運が浪士たちに味方したのでしょう。
もし晴れていたら、計画はうまくいかなかったかもしれません。
剣豪と名高い井伊直弼を、なぜ簡単に殺せた?
定説では、鉄砲の合図と共に襲ってきた浪士たちに、井伊直弼は籠に乗ったまま刀で刺されてしまいます。
なぜ、籠から出て応戦しなかったのでしょうか?
井伊直弼は14番目の子どもで、家を継げる立場ではありませんでした。
そのため、若いころから、自分の腕で食べていかないといけないと、茶道・学問・武芸も身に着けていました。
実は3年前、実行犯の証言記録が発見されました。
18人で襲った中に、生き残った人がいました。
その人が「こういう風に襲いました」と書いています。
逃げ回って、その場では捕まらなかったのです。
そこに書かれてあるのは…
「直訴状差し上げ、籠に訴えると見せて短銃発砲」
直訴状の下に銃を隠して発砲したのです。
そして、その時に使われた銃も残されていました。
箱の蓋には「直弼公天誅の短筒(井伊直弼を殺した鉄砲)」と記されています。
行列を襲う合図と思われていた銃声は、実は井伊直弼に向けて撃たれたものでした。
井伊直弼の遺体を検分した人の手記によると、銃弾は下半身を貫通していたと。
太ももから腰を撃たれたため、抵抗できなかったところを襲われたのです。
井伊直弼は、銃で撃たれた後、籠から引きずり出されて外で斬られました。
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